平成22年6月 奈良

 菅原天満宮
奈良市菅原町518
菅原天満宮は、奈良県奈良市にある神社です。
祭神は天穂日命・野見宿禰・菅原道真。
一帯はかつて菅原邑といい、菅原道真を出した菅原氏は、祖先がこの地に住んでいたことからその名がつけられました。
この地は菅原道真の生誕の地であるとの伝承も伝わっています。

平成14年(2002年)、それまでの菅原神社から菅原天満宮に改称しました。
 喜光寺
所在:奈良市菅原町508
喜光寺は大仏造立の勧進をした行基が養老5年(721)に建立した由緒あるお寺です。もともとは菅原寺と呼ばれていましたが、聖武天皇が訪れた折、ご本尊から不思議な光明が放たれ、その奇瑞を喜んだ天皇が喜光寺と名を改めたと伝えられます。
 言い伝えによれば、行基が大仏殿建立にあたってモデルとしたのが、喜光寺の本堂です。
 単層裳階付き建物で、東大寺大仏殿の十分の一のサイズに建てられたといわれ、「試みの大仏殿」とも呼ばれます。
 現在のお堂は室町時代に再建したものです。
 ご本尊は、ご本尊 阿弥陀如来像、脇侍に、観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像。
そして、行基菩薩坐像がいらっしゃいます。行基は、この寺で81歳で遷化しました。
本堂脇には、蓮が鉢植えで生育されていました。夏の時期には、蓮の花がきれいだそうです。
 垂仁天皇陵
 近鉄電車の窓からも、綺麗な墳形を見せる、菅原伏見東陵(蓬莱山古墳)です。
全長227mの前方後円墳で、広い周濠が印象的で、綺麗な古墳です。
 第11代垂仁天皇の御陵に治定されています。
田道間守(たじまもり)の墓
 ある時、垂仁天皇は「常世の国へ行って、不老不死の霊菓、非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を探してくるように」と、田道間守に命じました。非時の香菓とは、現在の橘(たちばな)のことです。
  苦難の末やっと常世の国に到達し、田道間守が香菓を持ち帰ったのは、10年後のことです。
 しかし、彼が帰国する1年前に、垂仁天皇は崩御していました。不老不死の霊果が間に合わなかったのです。田道間守は天皇の陵に参拝し、その前で泣き叫んで死にました。
 群臣たちは、これを聞いて皆泣き、その亡骸は陵の傍らに葬ったのです。
 薬師寺
所在地:奈良県奈良市西ノ京町457

 薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山で、南都七大寺の一つに数えられます。本尊は薬師如来です。
 1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。
 天武天皇9年(680年)11月、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願しました。
 しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれます。
 この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されています。 
 その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転しました。移転の時期は養老2年(718年)のこと。
 平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失います。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみです。
東院堂 国宝
 東院堂は、養老年間(717〜724)に吉備内親王が元明天皇の冥福を祈り、建立ました。天禄4年(973)の火災で焼失し、現在の建物は弘安8年(1285)に再建されました。
 堂内には、白鳳仏を代表する国宝 聖観世音菩薩が安置され、その四方は鎌倉時代の四天王像が守護しています。
 いよいよ、薬師寺の中心伽藍を見学します。
 薬師寺を拝観するのは初めてです。興奮しました。
東塔 国宝
 薬師寺の伽藍のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のものです。総高34.1m(相輪含む)。

 江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇ります。

 一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔です。複雑で華麗な塔です。

 塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えています。

 明治時代、フェノロサは、この塔を評して「凍れる音楽」と譬えました。
 千三百年前の伽藍が今まで存在しているのは奇跡です。美しい塔です。
西塔
 旧塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建されたものです。故西岡常一棟梁が再建に当たりました。

 塔は、材木の撓みと基礎の沈下が起きるので、現在は西塔が若干高いですが、500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算とのことです。
金堂
 1976年の再建。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の一つとされる本尊薬師三尊像を安置しています。
 本尊薬師三尊の中尊は薬師如来、左脇侍に日光菩薩、右脇侍に月光菩薩を配しています。
玄奘三蔵院
 主要伽藍の北側にあり、1991年に建てられ玄奘三蔵を祀っています。
 日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2m、長さが49m(13枚の合計)からなる「大唐西域壁画」が展示されています。
 西大寺
 西大寺は、奈良県奈良市西大寺芝町にある、真言律宗総本山の寺院です。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により建立されました。
 南都七大寺の一つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇りましたが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊(えいそん)によって復興されました。
 現在の本尊は釈迦如来です。
 西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建です。

 左は本堂、右は東塔跡です。
本堂 国重文
 室町時代の焼失後に再建された堂が傷んだため、修理ではなく新築とし、文化5年(1808年)頃完成したものです。
 本尊の釈迦如来立像(重文)は、「清凉寺式釈迦如来像」の典型作で、京都・清凉寺にある三国伝来の釈迦像の模刻です。
愛染堂

 京都御所の近衛公政所御殿を宝暦12年(1762年)移築したもの
 大極殿
 自転車で走っていると、復興された大極殿が見えてきました。迫力ある堂々とした建築です。

 次回は、平城京跡会場を見学したいものです。
 平城天皇陵
 平城京のすぐ北に位置しています。
 楊梅陵(やまもものみささぎ)といい、宮内庁により平城天皇陵に指定されています。
 1962〜63年の発掘調査により、同古墳を平城天皇の墓とするのは無理があることが判っています。
 ヒシアゲ古墳 (磐之媛命陵)
 磐之媛命(いわのひめのみこと)は、仁徳天皇の皇后で、履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇の母です。

 外濠には、睡蓮・葦などの水草が群生していて、ちょっと神秘的ながら荒々しい感じがします。
 彼女は、とても嫉妬深く、仁徳天皇30年(342年)、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫が八田皇女(磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后となる)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市)に移り、同地で没したとのことです。
 水上池
 周囲をサイクリングロードが廻っています。
 平城京の北にある溜め池です。
 広々とした水面、そして背後には御陵があり、のどかで静かな風景でした。
 コナベ古墳
 コナベ古墳は奈良市北部の佐紀丘陵の東側にある前方後円墳で、長さ約200m、前方部幅129m。墳丘は三段築成で、くびれ部の両側に造り出しがある。江戸時代には一時、元正天皇陵とされていました。
 現在は陵墓参考地です。
 ウワナベ古墳

 コナベ古墳の東側にあります。全長256m、前方部幅127m、 三段築成の前方後円墳です。
 ウワナベは、ウワナリ(後妻)が、コナベはコナミ(前妻)が訛ったものです。
 周囲に水を蓄えた濠をめぐらせた巨大な前方後円墳で、木々の緑におおわれています。
 不退寺
所在地:奈良県奈良市法蓮東垣内町517
 不退寺(ふたいじ)は、奈良市法蓮町にある真言律宗の寺院。本尊は聖観世音菩薩(業平観音とも呼ばれます)。

南門 (国重文)
 鎌倉時代末期の建築です。
石棺
 5世紀のもの。ウワナベ古墳付近にて発掘されたもの。庫裏北側に置かれています。

 寺院に古墳の石棺とは面白いです。
 縁起によれば、大同4年(809年)、平城天皇が譲位してのち隠棲し「萱の御所」と称したのが始まりとされ、その後平城天皇の皇子である阿保親王、更に阿保親王の5男である在原業平が暮らしたといいます。
 伊勢神宮参詣時に受けた神勅を機に、業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔ったのが、寺院としての始まりと伝えられています。
本堂(国重文)
 南北朝時代から室町時代前期の建立。正面5間、側面4間。寄棟造・本瓦葺。

不退寺は、花の寺としても有名だそうです。
 芸亭(うんてい)伝承地
 法華寺東交差点の北、一条高校の塀脇に「芸亭伝承地」標柱が立っています。
 「芸亭」(うんてい)とは、日本で最初の公開図書館とされている施設です。
 8世紀末、奈良時代後期に 有力貴族であった石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が 平城京に設置しました。
 石上宅嗣は大納言の地位にまで昇る一方で、知識人であり 熱心な仏教信者でした。
 自分の邸宅を改築した際に、敷地の一部に古今の書籍を収蔵し希望者に閲覧を許したのが芸亭の始まりとされています。
 海龍王寺
所在地:奈良県奈良市法華寺北町897

海龍王寺は、奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院です。本尊は十一面観音。
光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称があります。

創建について、伝承では天平3年(731年)、光明皇后の発願で建立され、僧・玄?が初代住持となったといいます。
本堂
 江戸時代、寛文6年(1666年)の再建です。
西金堂(重要文化財)
 奈良時代の建立(鎌倉時代に大修理)。内部に五重小塔(国宝)を安置します。
 切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面2間の小規模な仏堂です。
五重小塔 国宝
 創建当時から西金堂内に安置されており、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られていることから、天平時代の建築技法を現在に伝え、塔の建築様式の発展をたどる上にも重要であること、建造物としての五重塔はこれ一基しか存在していないので、小塔の価値が高く国宝に指定されています。