平成22年6月 奈良 斑鳩〜當麻

9年ぶりに斑鳩を訪問しました。久々です。
斑鳩の三古塔を見学します。一番最初は、法起寺です。

 法起寺(ほうきじ、ほっきじ)
 法起寺は、奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院です。
この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。
 本尊は十一面観音。聖徳太子建立七大寺の一つに数えられることもあるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことです。
  法起寺は、田園の中にあります。  
 建立時期については前述のとおり706年頃の完成とみなされています。
 高さ24mで、三重塔としては日本最古です。また、特異な形式の三重塔である薬師寺東塔を除けば、日本最大の三重塔と言われています。
 日本の木造塔は方三間が原則ですが、この塔は初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間という特殊な形式になっています。  
聖天堂
 金堂の旧跡に建っています。
 文久3年(1863)2月、建立されたもので、本尊歓喜天像を安置しています。
講堂
 現在の建物は、元禄7年(1694)3月(棟札による)に再建されたものです。 なお、本堂付近には、旧講堂のものとみられる礎石が残っています。
 法起寺は、お寺の外から三重塔を見た方が、堂々と大きく見えるように思います。
 法輪寺
 寺の創建には二説が伝えられています。
 ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らとともに太子のご病気平癒を願って建立された説。
 もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説です。 
 やはり田園のなかに寺はあります。   
 三井寺(みいでら)とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」とも書く。宗派は聖徳宗、本尊は薬師如来坐像。
金堂
 金堂は、江戸正保2年(1645)の台風で堂宇が倒壊してしまった後、三重塔が修復された宝暦10年(1760)の翌年に再建されたものです。
三重塔
 当初の三重塔は国宝にしてされていました。しかし、1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文さんらの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたものです。
 焼失した前の塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物ですた。
 三井瓦窯跡
 法輪寺と法起寺の中間、瓦塚という丘陵の中腹にあります。
 天平前期の様式を持つ蓮華文のある軒瓦が出土しています。
 法輪寺と法起寺の瓦が作られた場所だと推定されています。
 山背大兄王の陵墓
 山背大兄王の墓と言われています。山背大兄王が創建した法輪寺の近くにあるので、そうなのかもしれません。   
 玄米庵
 斑鳩町法隆寺東1-3-24にあるお店です。
 予約して行きました。予約すると焼き餅がつきます。今朝ついた餅だそうで、昔懐かしい味でした。
  
 自然食を使った凝った和食で、リーズナブルで美味しかったです。
 また、いつか斑鳩を訪れたら、食べにきたいものです。
 藤ノ木古墳
 久しぶり、9年ぶりに訪問しました。当時は、ただの塚のままでした、きれいに公園化して整備してありました。   
 先洞入り口にガラスのドアがあり、近づくと玄室にライトがつき中が見えます。
 斑鳩文化財センター
 文化財センターが整備され、藤ノ木古墳に関する展示がされています。展示品はレプリカですが、とても精巧にできています。
 石棺が朱色に塗られています。赤すぎるように思いますが、発見当初がこんな色だったのでしょうか。
 鳥谷口古墳(大津皇子の墓)
 二上山といえば雄岳山頂の近くに大津皇子のお墓がありますが、実際はこの鳥谷口古墳の被葬者こそがそうではないかと言われています。
 二上山の麓にあり、山の斜面に造られて円墳のようです。   
 石室は、南側に開口部のある横口式石槨で、組合式家形石棺の形をとる。二上山から切り出された凝灰岩)を使用しています。
 傘堂
 不思議な伽藍です。柱一本に屋根が乗っています。 
 傘堂は、江戸時代前期にこの地の郡奉行 吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である本多政勝の没後、菩提を弔うために、延宝2(1674)年に建立した「影堂」「位牌堂」です。左甚五郎が造ったと伝えられ、奈良県指定の有形民俗文化財に指定されています。

一辺40cm余りの方柱の上に方形造りの屋根をのせてあるような、珍しい形で、本瓦の屋根の頂上に瓦製の宝珠露盤をのせています。

傘堂に三度祈願すれば、長い病による下の世話をひとにかけず、自分も苦しむことなく、また、命終わるときは雨が降らずこれまた人に迷惑をかけないとの伝承があります。
 中将姫の墓塔
 當麻寺へ行く途中に中将姫の墓塔があります。  
 中将姫は763年(天平宝字7年)6月23日29歳の時、蓮糸で當麻曼陀羅を織り上げると、二十五菩薩の来迎を受け、極楽浄土に往生したといいます。

 當麻寺(当麻寺、たいまでら)
 當麻寺は、奈良県葛城市にある飛鳥時代創建の寺院です。
 西方極楽浄土の様子を表わした「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺であります。
 中将姫伝説は、天平時代に藤原豊成の娘、中将姫が継母に大和の雲雀山に捨てられ、 無情を感じた姫が當麻寺に入り、17歳で出家し、満願の日に現われた老尼の導きにより、 蓮糸で約4m四方の曼荼羅を一晩で織ったといわれています。
 姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのでした。
 本堂 (国宝)
 曼荼羅図が本尊でした。
 解体修理寺の調査の結果から、平安時代初期(9世紀頃)に建てられた前身堂を改築したものであり、さらにさかのぼる奈良時代の建物の部材も一部転用されていることがわかっています。 
 當麻寺は、伽藍、仏像ともに見応えがあります。    
  金堂 (国重文)
 鎌倉時代前期の再建と思われます。
 本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置しています。
  造弥勒仏坐像は国宝、乾漆四天王立像はくに重要文化財です。
 講堂 (国重文)
 講堂は、鎌倉時代に再建されました。 こちらの仏様(仏像)も素晴らしいです。
 本尊は丈六の阿弥陀如来で藤原期の仏像(重文)。その他、地蔵菩薩(藤原・重文)など、おもに平安時代の仏像が祀られています。   
重要文化財 石燈籠
 白鳳時代に作られた日本最古の石燈籠です。
東塔 (国宝)
 国宝の三重塔の初層が特別拝観となっていました。三重塔、国宝の塔が東西とも残っているのはすごいことです。
  
 東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定されています。東西の塔に建築時期の違いは若干あるものの、近世以前の東西両塔が現存する日本唯一の例として、きわめて貴重なものです。
 東塔の初層が無料で見学できました。
 東塔は修築が進んでいるのか、きれいな状態でした。
本堂 (国宝)
西塔 (国宝)  
 西塔の方が、東塔より建築が遅いとのこと。
 西塔は修築が未だ充分ではないようで、近寄ると危険とのことで、見学台からの見学となっていました。塔の周囲を歩けません。   
東西の塔が現在でも残っているのは珍しく、素晴らしいことです。
両塔とも国宝ですから、それもすごいことです。
西南院(さいないん)
 當麻時の塔頭で、平安時代初期からの由緒がある寺院です。
 庭園は池泉回遊式で、江戸初期から中期に造営されています。西塔(国宝)をうまく取り入れており、水琴窟が仕掛けも作られ、耳でも楽しめる庭園になっています。
西南院の庭から階段を登っていく展望台があり、そこから、国宝の東西両塔を一目で見ることができます。
いいですね。絶好の鑑賞ポイントです。
西南院の庭園
池に、西塔が写っています。
西南院の庭園
池泉回遊式庭園。
あまり観光客がおらず、静かで落ち着く庭園でした。
素晴らしい庭園です。
ツツジがちらほら咲いています。
中之坊
 中之坊は當麻寺最古の由緒を伝える塔頭です。白鳳時代(7世紀末)に役行者により開かれた道場で、8世紀、11代実雅法印(中将姫の師)の代に「中院御坊」として成立しました。
   本尊・導き観音の信仰の他、後西天皇が愛でた大和屈指の名園「香藕園(こうぐうえん)」や丸窓の茶室などがあり、當麻寺1300年の伝統を最も伝えています。
中将姫誓いの石
 女人禁制であった當麻寺に入寺したい一念で三日間念仏を唱えたところ、石に足跡がつき、それ以来女人禁制が解かれました。
 石の上には、小銭が奉納されていました。
庭園「香藕園(こうぐうえん)」国・名勝/史蹟
 東塔を借景とし心字池を中心とした桃山時代の名園で、古くから大和三名園に数えらています。
歩いて鑑賞する「回遊式庭園」、書院の縁より眺める「観賞式庭園」という2つの面を持たせた巧みな設計になっていてるそうです。
古くから大和三名園の一として知られます。
大和三名園:
 古くは大乗院・中之坊・竹林院
 現在は中之坊・慈光院・竹林院となっているようです。
東大門
當麻寺を後にし、當麻駅方面へ向かいます。
當麻町相撲館けはや座
 當麻町相撲館けはや座を見学しました。
 館内には日本相撲協会の協力を得て、その歴史や相撲に関する資料が1万点以上展示されています。 館内には大相撲と同じサイズの土俵に桟席が設置されており、地元の方か、相撲甚句の練習をしていました。直で聞くのは初めてです。面白かったです。
 
 當麻蹶速之塚
 相撲館けはや座の入口にあります。
 我が国における相撲の始まりは、第11代垂仁天皇7年、自分の強力を鼻にかけ自慢していた當麻蹶速を負かすため、出雲国より呼び寄せられた野見宿禰(のみノすくね)とが、奈良県桜井市穴師に建つ穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の参道脇にある広場で、天覧相撲をしたのが初めです。
  勝負は野見宿禰が當麻蹶速を蹴り倒して、あばらの骨をへし折って勝ちました。そして、負けた當麻蹶速が、現在も「五輪塔」の下に眠っています。

 これで、奈良の観光を追え、帰路に向かいました。大阪へ出て、新幹線で関東へ向かいました。