平成22年8月 福島県伊達市、桑折町

日帰りで、福島県北部へ観光に来ました。
伊達氏関係の史蹟を訪ねる旅です。

 高子ヵ岡舘跡 

住所:伊達市保原町上保原字丹露盤
阿武隈急行 高子駅の北側です。

高子ヵ岡舘は、伊達家の始祖朝宗の居城跡といわれています。
 朝宗は常陸国真壁郡伊佐荘中村に住したので、伊佐あるいは中村を姓としました(入道念西と称しました。)

 文治5年(1189年)源頼朝の奥州征伐に子息(為宗、為重、資綱、為家)を率いて従軍し、石那坂の戦いおよび阿津賀志山の戦いに大いに戦功があり、伊達郡を賜りました。
館跡へ向かう道脇は、桃畑でした。
ちょうどみずみずしい桃がなっていました。

 朝宗は、姓を伊達と改め、高子ヵ岡に城を営んで移住しました。そして、鎌倉の鶴が岡八幡宮を勘請して、城内に亀が岡八幡宮を建立しました。
 ついで朝宗は、高子ヵ岡から一望される桑折町の現県文化財指定の西山城に移りました。

 福聚寺 
所在:伊達郡国見町光明寺沼6-1

伊達市から、国見町へ来ました。
 福聚寺のある光明寺部落は、かって伊達政宗が信仰していた伊達五寺のひとつに数えられる、光明寺と呼ばれる豪壮な寺院があったところで、政宗の仙台築城と共に移転し、今は山間に廃寺跡が残るのみです。
宮城県仙台市の北山には、北山五山の一つ、光明寺があります。ここから幾つかの地を経て仙台に行きついたものです。
福聚寺には、伊達家の始祖朝宗夫人の墓があります。
 朝宗夫人は、南北朝時代県南地方を根城に一家をなした白河結城氏の出といわれます。
 伊達朝宗の墓は、桑折町にあります。

 梁川城(やながわじょう 
 梁川城は、福島県伊達市梁川町(旧伊達郡梁川町)鶴ヶ岡にあった平山城です。

 梁川城の発掘調査で発掘された遺物の最も古いものは、伊達氏三代伊達義広(1185年-1256年)または四代伊達政依(1227年-1301年)のころと推定されており、このころには築城されていたと考えられます。
 伊達氏は源頼朝の奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになりました。梁川城は、四代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、三百年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられています
浅間神社
柳川小学校の隣にあります。
伊達朝宗が勧請したものです。
伊達市立梁川小学校が、城本丸跡です。
発掘調査では、この小学校校庭の場所に本丸館がありました。  
梁川小学校の校庭に復元された中世庭園「心字の池」です。

中世の庭園は珍しいです。
小学校の隣にある幼稚園。
ここも本丸近くだったのでしょうか。

 駒止の松 
住所:伊達市保原町八幡台101-1
 段丘上にある赤傘松で、目通り幹回り3.9m、伊達本市指定の天然記念物です。
 建武年中、北畠顕家が義良(のりなが・のりよし)親王(のちの後村上天皇)を奉じて村岡八幡宮に戦勝祈願をしたとき、親王は駒を止めてこの松を嘆賞されたといわれています。

 藤田城跡 
伊達郡国見町山崎宮舘1-54ほか  
 文治五年(1189)阿津賀志山の戦いの折、源頼朝が鎌倉軍の本営をここにおき、それが源宗山の地名の起こりになったといわれています。
 南北朝の時代には、藤田城は霊山城の支城として南朝軍の拠点となり、貞和三年(1347)奥州管領吉良貞家の率いる奥州の北朝軍を総動員した軍勢の攻撃を受け、激戦の末落城しました。この時期の城主は伊達行朝か藤田下野守と推定されます。
 室町時代には伊達氏の家臣、藤田氏の居城であったと考えられ、奥州守護伊達稙宗と嫡子晴宗が争った天文の乱で稙宗方につき、藤田氏は断絶し藤田城は廃城になったと思われます。

  旧伊達郡役所 
桑折町字陣屋12番地 
 総二階建で、塔屋を頂く大規模な疑洋風様式による近代役所建築です。
 明治12年に保原町に設置されましたが、桑折町の有志が誘致運動を行ったことにより、明治16年4月に桑折町に移されました。
松尾芭蕉さんの銅像がありました。

  伊達朝宗の墓 
福島県伊達郡桑折町下万正寺
 伊達朝宗は、常陸国伊佐荘(茨城県下館市)を拠点に、常陸入道念西と称して源頼朝の奥州攻めに従い、文治5年(1189)8月阿津賀志山に藤原国衡の軍と戦いました。また、朝宗は佐藤基治の軍を石那坂に破り、その功により信夫、伊達の地を賜り、伊達の姓に改め、のち72歳で没したと伝えられています。この地は、発掘調査によって発見された出土瓦や堀割りなどから、菩提寺の満勝寺跡と推定され、伊達市の入部説を裏付ける貴重な遺跡となっています。
文政4(1821)年に、伊達氏によって建てられた五輪の石塔。
伊達氏は、参勤交代の折、墓参したといいます。
伊達朝宗の墓
伊達氏の祖・朝宗の墓で、伊達家四代政依が建てたといわれています。