平成23年1月
 平成23年の元旦に、栃木県へドライブに来ました。

 壬生寺(みぶじ)
 紫雲山 壬生寺(しうんざん みぶじ)は、栃木県下都賀郡壬生町にある天台宗の寺院で、本尊は不動明王です。
円仁(慈覚大師)誕生の地として伝えられます。
 慈覚大師、円仁は伝教大師 最澄に師事し、後に第3代天台座主となります。
入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人で、下野国の生まれで出自は壬生氏と言われます。
 円仁が遣唐使船により唐に渡り、この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が「入唐求法巡礼行記」です。これは日本人による最初の本格的旅行記で、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されています。
元日のお昼過ぎに訪れました、初詣の人々はあまりおらず、少し閑散としています。
慈覚大師産湯の井戸があります。
古来から、この水を飲むと、子供が安産で生まれ、乳の出ない人は出る等、健康増進、諸病平癒に霊験があるそうです。

 車塚古墳
 車塚古墳は、栃木県を代表する古墳時代後期の大円墳です。
 墳丘は三段に造られ、大きさは、直径が82m、堀(周湟)の底からの高さが約11mあります。墳丘の周囲には、ほぼ完全な形で円形に堀と土塁(周堤帯)が廻り、土塁を含めた古墳総全長は約120mに達します。
墳丘南側には、巨大な凝灰岩の一枚石を使った横穴式石室が開口しています。
 石室の奥壁面には赤く色が塗られていた痕跡が認められます。
 江戸時代の古文書などから、当時すでに開口していたことが記されています。
 古墳がつくられた当時は、墳丘全体が石でおおわれその姿はこの地を治めた権力者のお墓にふさわしいものであったそうです。

 牛塚古墳
 牛塚古墳は、車塚古墳の道路を挟んだ反対側、西側にある前方後円墳です。
墳形は前方部が短く、上から見ると帆立貝のような形をしているため帆立貝型の前方後円墳とも呼ばれています。墳丘の全長は約47m、後円部の高さは約5mあります。 
牛塚古墳の石室については、発掘調査が行われていないので不明ですが、墳形などから古墳時代後期(今から約1400年前)につくられた古墳と考えられます。

 愛宕塚古墳
 愛宕塚古墳は、二段に築成された前方後円墳で、前方部を西南西にむけています。墳丘の推定の全長は約65m。
愛宕神社の鳥居です。
周濠は、埋もれて見えなくなっています。
前方部には、愛宕神社が祀られています。1694(元禄7)年、壬生城主 松平輝定が壬生城の鬼門除けとして築いたものと伝えられています。
前方後円墳の形状に見えなくもないです。

 箕輪城
 群馬県に武田信玄にも落とせなかった箕輪城という百名城にもなっている城がありますが、こちらは、栃木県の箕輪城です。
 南北朝時代の暦応2年(1339)に南朝方の春日顕国の軍勢の前に箕輪城は戦わずして降伏したという文書が残っています。当時、北朝方の城だったでしょう。
 道路脇に、箕輪城を示す偽木型の標識が立っています。
箕輪城の遠望
箕輪城の主郭部分です。雑木林になっています。
 主郭には、鷲神社の小さな社が 建てられています。
 この主郭を取り囲むように土塁が良く残っています。
しいたけを栽培しています。

 
現在でも、国分寺というお寺があります。

 下野国分尼寺跡

 下野国分尼寺跡は、下野国分寺跡の東方約600mのところにあり、国分寺と同じく聖武天皇の詔によって建てられた国立の寺院です。
伽藍(寺の建物)配置は、国分寺と同様に東大寺式ですが、塔はつくられませんでした。
発掘により、全体の規模は南北約270m、東西約145mであることがわかっています。
 現在、主要伽藍の基壇と礎石が復元表示され、史跡公園として人々の憩いの場として活用されています。