平成23年 2月19日 宮崎県
 羽田空港から宮崎空港へ。初めて宮崎県へ訪れました。

 宮崎空港の外周には、ソテツの木が植えられています。
空港からレンタカー会社に電話し、迎えにきてもらい、レンタカーを借りました。

このレンタカーのナビゲーションシステムがへぼへぼで、使いづらいこと、使いづらいこと、この上なかったです。

 宮崎城跡
所在:宮崎県宮崎市池内町
 宮崎城は、南北朝時代の延元元年に図師六郎入道が築城した自然の地形を利用した城です。
 入道は宮崎城を築城した際には南朝方に付き、挙兵しますが、北朝側の土持宣栄によって落城してしまいます。
 その後宮崎城は日向の雄・伊藤家の持城となり天文5年には佐土原城から居城を移し、拠点とするも、天正5年に薩摩・島津家に占領されてします。
 天正15年には豊臣秀吉の九州征伐で、高橋元種が移封するも、関ヶ原の戦いで、西軍方に付いた高橋元種は東軍方の伊藤家に攻められ落城。 
その後は、有馬家が移封してきて、有馬家の居城となりますが、一国一城令により廃城となります。
あまり地理を調べもせずにきました。
宮崎城というから、市街地の中にある城かと思っていましたが、山城でした。
急な坂を登り続け、本丸に着きました。

 穆佐城(むかさじょう)跡
所在:宮崎県宮崎市高岡町小山田

穆佐城跡へ来ました。車を穆佐小学校の裏手の駐車場に停めます。
 穆佐城跡は、宮崎県の県南中央部にあり、東流する大淀川右岸の標高約60mの低丘陵上に立地する平山城です。
 佐土原から都城を経て薩摩へ向かう薩摩街道上の要衝に位置している。
 穆佐城跡は、南北朝時代の争乱にかかわった城跡で、戦国時代には伊東氏と島津氏が争奪を繰り返した城跡です。
穆佐小学校の校庭から見た、穆佐城跡です。
島津忠国の誕生杉
 島津氏 第8代久豊は、応永10年(1403年)穆佐城に入りました。
 この城で、第9代忠国が生まれ、その記念に日本の杉が植えられました。現在の杉は二代目の誕生杉です。
曲輪群がよく残っています。
発掘調査がなされているようです。
城跡には、杉が林立しています。
本丸の曲輪群です。
発掘調査が進んでいます。

 月山日和城
 別名 三俣院高城
所在:宮崎県都城市高城町大井手字横馬場

 高城は、肝付兼重により築城。畠山直顕の居城ともなった。
 月山日和城は、元弘年間に肝属兼重によって築かれた。 肝属氏は南北朝の争乱には南朝方に属し、暦応3年に北朝方の畠山直顕が大軍を率いて攻めた落城した。
  高城は、1331〜34年(元弘年間)肝付兼重が築きました。高城町は三俣院の院庁が置かれていた場所で、兼重は三俣院司として三俣殿と呼ばれ、院内(現都城・三股町)を治めました。
昨年の霧島連山の新萌岳の噴火により、噴出した火山灰が道路に降り積もっています。
建物の屋根にもつもっています。
なんだか海辺の砂のようです。
 1334〜38年(建武年間)足利尊氏が九州に来ると、九州は大半尊氏に応じるが、兼重は南朝方につきこの城に拠って動きませんでした。1339年(延元4)8月将軍山に陣した尊氏の将畠山直顕に攻められ、兼重は南朝方から受けた錦の御旗を翻し、連日激戦を繰り返しますが遂に力尽き高山へ敗走し、日和城は直顕に攻略されました。
しかし1358年(正平13)11月肥後の南朝方菊池武光は4千の兵を率い日和城・石山城に拠る直顕軍を戦場川原で破り、畠山父子は日和城から敗走した。
 畠山氏の後、日和城は和田氏、さらに島津氏、伊東氏、北郷氏の居城となりました。
 1587年(天正15)豊臣秀吉が九州を平定すると伊集院氏の城となり、1615年(元和1)一国一城令により日和城は廃城となりました。
模擬天守ですが、なかなか立派です。

 松尾城
所在:宮崎県都城市山之口町花木字百地(あじさい公園)
 松尾城は、建武3年、肝付兼重によって築かれたという南北朝時代の古い山城です。肝付兼重は、比較的近い月山日和城の城主で、月山日和城の支城として築かれたと思われます。
松尾城は、あじさい公園内の一番高い丘の上にあります。そこに天守閣があり展望台ともなっています。
模擬天守内には、発掘調査時の写真が飾られ、そこに「松尾城」の名が記されています。
天守から、都城の平野が見渡せます。

これて観光を終え、高速道路を走り、宮崎市内のホテルへ戻りました。