平成23年4月24日  福島県へ

 三春の滝桜
所在地:福島県田村郡三春町大字滝字桜久保296

 福島県三春町にある滝桜を観光に来ました。
 磐越自動車道の船引三春ICを降りると、そこから渋滞が始まっていました。(その時点で午前9時だったので、時間が遅いと言えば遅いですが。) この日は日曜日で、2日前ぐらいに満開となっていました。
 でも、渋滞でも車はよく流れています。なんとか10時には、駐車場に入ることができました。(船引三春ICから滝桜の駐車場までは、約7.5kmです。)
広い駐車場が用意されています。
そこから、きれいな遊歩道が滝桜まで整備されています。
 滝桜は、毎年4月中・下旬に四方に広げた枝から薄紅の花が流れ落ちる滝のように咲き匂うことから、この名があります。
 江戸時代の天保の頃、加茂季鷹の詠歌によってその名を知られ、三春藩主の御用木として保護されました。
 滝桜は、エドヒガン系の紅枝垂桜(ベニシダレザクラ)で、大正11年10月12日、国の天然記念物の指定を受けた名木です。
 「根尾谷淡墨ザクラ」(岐阜県本巣市)・「山高神代ザクラ」(山梨県北杜市)とともに「日本三大桜」と呼ばれています。
 樹高は12m、根回りは11m、幹周りは9.5m、枝張りは東西22m、南北18m。樹齢は1,000年以上(推定)と言われています。
「日本さくら名所100選」には滝桜を含む約2000本の「三春町のシダレザクラ」が選ばれています。
滝桜は巨木で、近くから見た姿は圧巻です。
咲いた桜の花には勢いがあります。
幹を支えている木も太い丸太です。
ベニシダレザクラの花
ちょっとソメイヨシノとは違います。
滝桜よりも高い位置にある丘です。
広場のようになっています。
滝桜の周囲には、遊歩道が整備されており、ぐるりを360度歩いて回りながら、滝桜を観賞することができます。
前日は雨で、今朝は晴れなので、澄み切った青空の下、満開の滝桜を楽しむことができました。

次に、また磐越自動車道に入り、会津若松を目指しました。

 御薬園
 所在地:会津若松市花春町8−1

 御薬園(おやくえん)は、福島県会津若松市にある日本庭園で、会津松平氏庭園として国の名勝に指定されています。
 御薬園の起こりは、室町時代に霊泉の湧きだしたこの地に、永享4年(1432年)、葦名盛久が別荘を建てたのがはじまりと言われています。
その後の江戸時代の寛文10年(1670年)、会津藩2代藩主保科正経が領民を疫病から救うために園内に薬草園を作り、3代藩主松平正容が貞享年間に朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励したことから、それが名前の由来となっています。
カタクリの花が咲いていました。
タムシバ(モクレン科)
沈静、沈痛などの薬になるようです。
 現在の庭園は、元禄9年(1696年)、正容が、園匠の目黒浄定を招き、小堀遠州の流れをくんだ本格的な大名型山水庭園に大改造したものです。
 園内の楽寿亭や御茶屋御殿の建物は、戊辰戦争時に新政府軍の傷病者の診療所とされたため、戦火を免れました。
 昭和7年(1932年)10月19日に、徳川時代の代表的な大名型山水庭園として優秀なものとして国の名勝に指定されました。昭和54年(1979年)6月25日には旧薬園跡、池水取入口などが追加指定されました。
敷地面積は約1.7ha。中央に心字の池を配し、その中央に亀島と楽寿亭を置き、池辺には巧みに石を配し、池への流水路として女滝、男滝を配置しています。
 園内に多くのモミ、スギ、マツの大樹老木を配置し、キャラボク、ゴヨウマツの古木を点植し、回遊園路を設けた、東側の背炙山の連山を背景とした借景池泉回遊式庭園です。
緋毛氈をしいた長いすがあり、ここでお抹茶をいただけます。
池には、カモがいてエサをもらっています。
テッポウスイセンの花が満開でした。
楽寿亭
 池の中の島にあります。
 戊辰戦争時につけられたという刀傷が欄干にあります。

 会津若松市に、こんな池泉回遊式の大名庭園があるとは知りませんでした。大名庭園らしい、ダイナミックな素晴らしい庭園でした。感動しました。

 鶴ヶ城(若松城)
 さらに、会津若松市内の鶴ヶ城に来ました。
 鶴ヶ城は、1384(至徳元)年、葦名直盛によって築城された黒川館を発祥とし、次第に黒川城として整備が進められていきます。そして、1589(天正17)年に伊達政宗が葦名氏を滅ぼして黒川城を手に入れました。
 しかし、天下統一目前の豊臣秀吉には逆らえず城を取り上げられ、召し上げられてしまいました。
三の丸には、高遠城址にあるのと同じ、コヒガンザクラが植えられ、ちょうど満開を迎えていました。
とてもきれいです。
気持ちが浮き立ちます。
鶴ヶ城入口
こちらの桜は、5分〜8分咲きでしょうか。
 伊達政宗に代わって、1590(天正18)年、豊臣秀吉配下の蒲生氏郷がこの地に移封されると、地名を若松に改称し、本格的な天守閣が建造されます。城は「鶴ヶ城」と呼ばれるようになり、現在でも地元では通称として親しまれています(国指定史跡名称は、鶴ヶ城跡)。
 蒲生氏郷の次は、その子である蒲生秀行が継ぎますが、家中騒動を理由とし宇都宮に移封され、代わって上杉景勝が120万石で入城します。
 しかし、関ヶ原の戦いで石田三成に味方したことから、上杉氏は米沢30万石に移封され、代わって再び蒲生秀行が入ります。 
 そして、秀行の子・忠知は伊予(愛媛県)の松山城に移封され、入れ替わりで松山から加藤嘉明が入封します。ところが1643(寛永20)年に嘉明の子・明成が改易され、代わって、徳川第三代将軍徳川家光の弟である保科正之が、23万石で山形から入城しました。
 これ以後、明治維新まで会津松平氏の居城となり、幕末には幕府方の中心として奮戦しました。戊辰戦争では、会津戦争と別名がつくほど抵抗し、板垣退助率いる新政府軍と1ヶ月に及ぶ籠城戦を繰り広げた末に降伏しました。
鶴ヶ城の受付の男性は、陣羽織を羽織って、戦支度の出で立ちでした。勇ましいです。
 新政府としては会津鶴ヶ城をそのまま残しておくことは、反政府へのシンボルとなる恐れもあり、また現実問題として被害が著しかったこともあったことから、明治7年に天守閣その他の建造物取り壊されました。
 今見る天守閣は、古写真が残っていたことから1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート及び一部木造で復元されたものです。
 また、2001(平成13)年には、天守に続く南走長屋と干飯櫓が復元されました。
鶴ヶ城の屋根瓦は、赤茶色っぽい赤瓦に葺き替えられています。これは、松平氏時代の鶴ヶ城の瓦に復元したものです。
1990年(平成2年)、「鶴ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されました。
ちょうど、鶴ヶ城さくら祭りが開催されており、たくさんのお客さんがいました。
よさこいソーラン祭りのような踊りも催されていました。