平成23年 9月 秋田県への旅(秋田二日目)

秋田県の旅、二日目は、横手市の金沢柵へ向かいました。
 金沢柵(かねざわさく、かねざわのき)
住所:横手市金沢中野
 金沢柵は城跡であり、平安時代の後三年の役(1083〜1087年)の舞台であり、古戦場です。
 金沢柵は山城で、中心は四面断崖絶壁の岩山からなり、天然の要害をなしています。
 後三年の役(後三年合戦)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役で、東北地方に覇を唱えていた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いです。
 当初は、陸奥・出羽の大族、清原氏の内紛に始まり、そこに、東北地方に勢力を拡大しようと野望を持つ源義家が介入し、最終的には、清原清衡が勝ち残り、藤原清衡と改め、奥州藤原氏の繁栄の礎を築きました。
後三年の役金沢資料館
秋田県横手市金沢中野102-4
まずは、資料館を見学して、後三年の役について勉強しました。
 金沢柵は後三年の役の激戦地で、それにまつわる伝説が幾多も残っています。
 清原家衡、武衡は沼の柵の攻防で戦勝し、当時難攻不落の城と呼ばれたこの金沢の柵に立てこもりました。
 源義家は金沢柵を落とすのに多くの犠牲がでたため、城を包囲し兵糧攻めにしました。日本史上、初めての兵糧攻めです。
景政功名塚
 鎌倉権五郎景正は、16才の初陣で大軍を前に死をも恐れず、勇敢に戦って手柄を立てたとして、源義家に 認められ、この地に敵の屍を集めて塚を作り供養しました。その上に杉を植えたのが「景正功名塚」です。この老杉は昭和23年の火災で、幹だけを残して焼けてしまったのだそうです。
納豆発祥の地の石碑
 源義家(八幡太郎義家)が金沢地区の農民に豆を煮させ兵糧として供出させたところ、数日後、その煮豆が香ばしい香りをただよわせ、糸を引くようになりました。義家はこれに驚き、食べてみたところ意外においしかったため、その後も食用としました。後世に伝えたのが「納豆」として全国に広がったとされています。
兜杉
 兜杉は源義家が凱旋の時、愛用の兜を埋めて石をその上に置き、そばに記念のため藤原清衡が植えた杉ともいわれています。昭和58年1月失火により焼失するまで市の天然記念物に指定されていました。
星兜石
 源義家が戦勝を記念して、凱旋の折、兜を埋めてその上に石を置いたものです。
金沢八幡神社
 金沢八幡神社は後三年の役の後、金沢柵の二の丸に源義家が藤原清衡に命じて創建し、石清水八幡宮の神霊を勧請しました。
 江戸時代になると、秋田藩主である佐竹氏は源氏の子孫ということもあって、慶長9年(1604)に社殿を造営し、その後の改修や改築、奉納品など多数賜り、崇敬されました。

 現在、金沢八幡神社がある場所は金沢柵の二の丸跡で、その一段下がった駐車場脇が兵具倉跡、右側の高台が本丸跡、神社後方の相撲場は北の丸跡になっています。
本丸跡
なかなか広い本丸です。
北の丸跡
現在は、相撲場となっています。ここも広いエリアです。
蛭藻沼(武衡生捕池)
 金沢柵落城の時、清原武衡が刀の鞘の尻を切って口に当てて沈んでいたといわれています。しかし、見つかって、生け捕られてしまいました。

 平安の風わたる公園
 源義家が気づいた雁行の乱れの場所にあり、後三年の合戦をモチーフにした公園です。
源義家、藤原清衡、武衡、家衡のブロンズ像があり、後三年合戦絵詞の壁画レリーフ、雁の形をした橋、足元には系図や地図などがあり、後三年の合戦の歴史を学ぶことができます。

源義家のブロンズ像

清原家衡のブロンズ像

藤原清衡のブロンズ像

清原武衡のブロンズ像
 平安の風わたる公園は、広大な敷地に整備され、大きな橋が造られ、ブロンズ像・レリーフがあったりと、お金がかけられています。

 沼の柵
別名:沼館城
住所:秋田県横手市雄物川町沼館
 沼の柵は後三年の役の激戦地で、当初清原家衡は沼の柵にたてこもり、源義家の加勢を得た清衡軍を迎え撃ちました。四方を水で囲まれた水城と呼ばれた沼の柵は冬まで持ちこたえ、連合軍は、寒さと飢えで多くの兵を失い戦線を維持出来なくなり、陸奥へ撤退していきました。
中世の沼館城は蔵光院が本丸、雄物川北小学校が二の丸、二ノ丸東側一帯から沼館八幡宮にかけての範囲が三の丸だったとされます。
現在、蔵光院の南・東部に高さ6〜10m、幅6mの土塁があり、雄物川北小学校外周部にも土塁らしき小さな土盛りが確認されます。

 スタルヒンの墓
住所:横手市雄物川町今宿85−1

沼の柵を見学した後、街中で、スタルヒンの碑という標識が目に入り、気になって訪れました。
崇念寺というお寺があり、ヴィクトル・スタルヒンの墓がありました。
スタルヒンは、1916年(大正5年)ロシア生まれで、ロシア革命により日本に亡命してきました。
戦前から、太平洋戦争をはさんで、昭和30年には球界初の300勝投手となりました。
しかし、昭和32年不慮の事故のため40歳の若さでこの世を去ることになります。
生涯記録は、586試合で303勝176敗(完投350、完封83)奪三振1,960。現在でも、完封83という記録は破られていません。

スタルヒンの奥さんが、このお寺の住職のお姉さんだったこともあって、スタルヒンさんは奥さんと一緒にこの地に永眠しました。

 本多正純の墓碑
所在地:秋田県横手市城南町
 本多正純は上野介、本多正信の嫡子です。
 正純は徳川家康の側近として信任厚く、老中として権勢を振るいました。
 しかし、家康死後の寛永元年(1624)、正純・正勝父子は2代将軍秀忠暗殺未遂の嫌疑を受け、佐竹義宣に預かりの身になりました。
 本多正純は寛永14年(1637)3月10日、配流先の横手で死去。享年73歳。
 横手市の配所跡にある正純の墓碑があります。

 横手城
所在地:秋田県横手市城南町
横手城は、秋田県横手市にあり、構造は山城です。
 関ヶ原の戦いの時、当時の城主であった小野寺義道は、上杉景勝に通じたことより徳川家康に西軍方とみなされ1601年に改易され、最上氏の城となりました。
 1602年(慶長7年)、久保田城に佐竹義宣が転封されてくると横手城も佐竹家の所有となり、城代が入れられました。
現在、城跡は横手公園として整備され、模擬天守が建てられています。

横手城に来ると、雨が本降りになってきました。これで、観光を切り上げ、帰路に向かいました。