平成24年2月 群馬県
 群馬県の古い石碑である、上野三碑と山城を見学にきました。

 山ノ上碑
山ノ上碑(やまのうえのひ)は、群馬県高崎市山名町にある古碑で、国の特別史跡に指定されています。金井沢碑、多胡碑とともに上野三碑と称されます。
 麓に無料の駐車場があり、そこに車を停め歩いていきます。急な階段を登っていきます。
山ノ上古墳
 山ノ上碑の東側に、横穴式石室の内部構造をもつ円墳があり、古墳としては終末期古墳に属するものだそうです。
山ノ上碑
 山ノ上碑は墓誌であり、隣接する山ノ上古墳の墓誌であると考えられています。その内容から放光寺の僧侶長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のために墓を建てたという内容です。墓誌としては日本最古です。
 「放光寺」は佐野の地にあると考えられてきましたが、最近の発掘調査により、前橋市の山王廃寺の可能性が高くなっています。
 天智天皇10年(681年)の建碑と考えられており、上野三碑の中でも一番古いです。

 高さ120cm、幅50cm、厚さ50cmの輝石安山岩に4行53文字が薬研彫りで刻まれており、書体は古い隷書体の特徴が見られるそうです。石碑は、覆屋の建物が造られ、ガラス越しに碑が見学できます。

 金井沢碑
 金井沢碑(かないざわのひ)は、群馬県高崎市山名町にある古碑で、国の特別史跡に指定されています。山ノ上碑、多胡碑とともに「上野三碑」と称されます。
四阿がある駐車場に車を停め、川にかかる橋を渡ります。
急な道を登っていきます。
 金井沢碑も覆屋の建物が造られ、ガラス越しに碑が見学できます。
 金井沢碑は、神亀3年(726年)2月29日の建碑です。高さ110cm、幅70cm、厚さ65cmの輝石安山岩に9行112文字が刻まれています。書体は古い隷書体の特徴が見られるそうです。
 その内容は、上野国群馬郡下賛(下佐野)郷高田里の三家(ミヤケ、屯倉)の子孫が、七世父母、現在の父母等のために天地に誓願して作る旨が記され、祖先の菩提と父母の安穏を仏に祈願しています。奈良時代における民間への仏教信仰の浸透を知ることができます。

 茶臼山城跡
所在地:群馬県高崎市寺尾町1080  別名:鷹ノ巣城

 茶臼山城は南北朝時代から室町時代前期にかけて南朝方として活躍した尹良親王によって築かれた城といいます。尹良親王は後醍醐天皇の皇孫であり宗良親王の第二王子で、南朝に味方する諸豪を束ねて北朝方と対抗しました。
 応永4年(1397)には寺尾城を拠点として、応永31年(1424)に上野から三河へ向かう途中の信濃で北朝方の軍勢に包囲され自害して果てました。
 茶臼山城は、戦国時代に入ると西上州は上杉氏、後北条氏、武田氏の激しい争奪の舞台となりました。茶臼山城と丘陵続きにある根小屋城は武田信玄による築城とされています。
ずっと登って郭に着きます。
この先へ行くと道が下り、堀切りへ降ります。
堀切り

ここを降りると、下の道に突き当たります。
その道を左に行くと、本郭へと行けます。

この先を左手に曲がり登っていきます。
茶臼山城の本郭
地元の方の厚意により、きれいに整備されています。
高崎市の街並みがよく見えます。

 寺尾中城跡
所在地:群馬県高崎市寺尾町1064−30

続いて、寺尾中城跡へ来ました。城跡は、高崎市南部の丘陵地帯、観音山ファミリーパークの中にあります。
寺尾中城は、両側が切り立った丘陵の細い尾根上のやや広い部分に5つの郭を設け、その郭間を堀切で断ち切るという天然の要害を巧みに利用した典型的な連郭式山城です。
観音山ファミリーパークの駐車場に車を停め、公園内を歩いて行きます。
子供用の長い滑り台がありました。
城は、公園内の「癒しのエリア」に組み込まれ、散策コースとして綺麗に整備されています。散策コースには、北・中央・南の3つのコースがあり、中央コース(約1,040m、所要時間37分)を行けば、寺尾中城の5つの郭を全部廻ることができます。
「吾妻鏡」に「治承4年(1180)9月30日、新田義重が兵を寺尾城に集め、頼朝の招きに応じなかった」とあります。この寺尾城が、寺尾中城ではという説があります。文献に現れるのは、これが最初のようです。

本城への登り口です。
寺尾中城 本城跡
応永5年(1398)、後醍醐天皇の孫・尹良親王は、信濃南朝方の関東の橋頭堡である寺尾城に拠り、新田一族の世良田政義の支援を受けて、退勢の挽回を図りましたが、同19年(1412)平井城主上杉憲定に攻略されて落城し、親王は信州諏訪に逃れたと伝えられています。
 寺尾城は、上城・中城・前城それぞれ4km程隔てて配され、丘陵一帯をおさえていました。
二の郭
 それぞれの郭の間は、急坂(崖のよう)で分断されています。
三の郭
細長い郭で、かなり広いです。
三の郭と四の郭の間にある長さ20mにも及ぶ細い土橋は、両側が遥か下の方まで落ち込んでいます。落ちたら怖いです。
四の郭
五の郭
規模が大きい城でした。それなりの兵の数で守れば堅固な城だと思いました。

 高崎城跡
 高崎城は慶長3年(1598)、箕輪城主井伊直政が主君である徳川家康の命により和田城跡に移り築城したのが始まりです。
 高崎の地は三国街道と中山道の分岐点である交通の要所で軍事戦略上も重要視されました。直政は和田城を大幅に改修、本丸を中心に取り囲むように多くの郭や廓を配し二の丸、三の丸を梯郭式で構成する輪郭梯郭複合式の平城としました。
明治維新後に廃城となり取り壊されましたが、乾櫓(土造2階建て、入母屋瓦葺き、桁行3間、梁間2間)と東門が移築保存され群馬県指定重要文化財に指定されています。
東門
飛龍の松