平成24年5月 福井県への旅
この日は、福井県の山城を三城、登城しました。お天気は回復し、晴れてきました。

 栗屋城跡(くりやじょう)  所在地:福井県越前町厨
 この城が有名になるのは、斯波高経の子、斯波義将が若き日一時篭城したからです。

 貞治5年8月8日、将軍義詮は当時幕政を押さえていたは斯波高経の追討、義将の執事解任を命じた、いわゆる貞治の政変である。このため、高経・義将親子は三条高倉の京屋敷に火を放ち一族ともども越前に下り、高経は南条郡の杣山城に、義将はここ栗屋城に立てこもることになりました。

 直後、幕府の追討軍約7千の軍勢が、杣山城と栗屋城を囲むが、大きな戦にはならず、何とか1年近く城を守りぬきます。
 貞治6年7月13日、63歳にして高経は杣山に病没、その死は4日後には京に伝えられ、その直後8月2日には義将の使者が将軍のもとに参上し、赦免交渉を始めます。幕府は直ちに赦免を決定し、9月4日には義将は早々と上洛を果たしました。この後、義将は管領となり、斯波氏の全盛時代を築いていくことになりました。
国定公園 越前海岸に厨海水浴場があります。厨浦の背後に栗屋城址があります。城址がある山は標高513mで、西は日本海、東は丹生山地から福井平野を望む絶好の要地です。近くには海岸と内陸を結ぶ峠があり、当時、交通面でも重要な場所でした。 
広域基幹林道、越前西部2号線を走り、城山の直下まで来ました。

鳥居がある手前に、車を停められるスペースがありました

そこに車を停め、鳥居の下をくぐり、栗屋城址へ続く階段を登っていきます。。
土の林道を歩くと、アスファルト舗装された林道を合流しました。アスファルト舗装路を歩いていくと、終点の広場に出ました。
道は狭かったけれど、車でここまで来れたのかなと思いました。

ほかに人はいませんでした。
また、鳥居があり、本丸跡へ登っていきます。
5月のGWでも、よく草が茂っています。笹が生えていました。
車を停めてから、頂上まで約15分ほどで来れました。

頂上には、厨城山愛染明王社があります。

愛染明王は、恋愛成就、家庭円満、商売繁盛、家運隆昌などにご利益があるそうです。
城の遺構としては、堀切、井戸跡などが見受けられました。

頂上は木々が繁茂し、眺望はよくあるそうです。

疲れもせず、楽に来れました。
帰る途中、越前海岸見えました。
青い海です。越前海岸は、海岸まで山が迫っています。
広域基幹林道、越前西部2号線へ入るアクセス道路は、ちょっと荒れていました。

崖から、岩が崩れています。
また、こんな道幅が細い箇所があります。右側は、崖下です。やっと車が通れます。
こんな、崩れそうが岩場もありました。
 
この後は、鯖江市に向かい、三峯城跡を目指します。
三峯城跡も山城ですが、本丸に比較的近くまで、車でアプローチできます。

 三峯(みつみね)城跡  所在地:福井県鯖江市上戸口町

三峯城は、南北朝時代に平泉寺の僧兵が築いた城で、新田義貞の弟の脇屋義助が入った城です。築城後わずか4年で落城してしまいました。
鯖江市上戸口町を抜け、戸の口トンネルのすぐ手前を右折します。
水道の送水場が角にあります。
林道を約4km程走ると(約10分ぐらい。林道は舗装されています。)、旧三峰集落跡に出ます。駐車スペースがあるので、車を駐車して頂上へ向かいます。
旧三峰集落は、中世から、江戸時代と集落があり、昭和12年まで人が住んでいました。

昭和12年に山の麓に住人が下りて、無住になったとのこと。

ここには、三峯寺という寺院がありました。墓地の墓石群が発掘されていました。
林道下に、かつてあった大銀杏がありました。
林道を100mほど歩いた所が、三峯城跡への遊歩道入口です。頂上の城山まで、わずか800mで、歩いて15分から20分位です。
登っていくと、松の木が倒れていました。その下をくぐっていきます。

アップダウンがある遊歩道です。
松の木の後ろにある、追分地蔵です。 
遊歩道は、最初の頃は、杉林の中を通っていきます。
途中、土橋があります。
虎口

偽木の階段があります。

ここで、山で山菜を採っているお母さん達とすれ違いました。
頂上が見えてきました。
 脇屋義助の碑のある城跡からは越前平野が一望できます。

 三峯城跡は、金谷・西袋・上戸口のそれぞれから伸びた峯が合わさるので三ツ峯と呼ばれる城山にあります。一乗谷もすぐ近くで、三ツ峯村から山1つ越えて行けます。

 郭や堀切、土塁や土橋・櫓跡など遺構の状態が良く、南北朝時代の城の特徴を良く残す城だといわれています。戦国時代にも、一乗谷を防御する役割を担ったとのこと。

 鷹巣城跡   所在地:福井県福井市高須町
鷹巣城跡は、福井市内でも西方、越前海岸に近い高須山(438m)にあります。
南北朝時代、越前南朝軍の最後の拠点で、南朝の鬼将軍言われた畑時能が築いた城跡です。   
高須川の上流に富士山型の山が見えます。 これが高須山です。南朝の臣畑六郎左ヱ門時能が最後の拠点とした城跡が頂上にあります。
福井市高須町集落の中を抜けると、棚田のような田がります。そのなかの農道を走り登っていきます。
私は、舗装路が途切れた所に広場があったので、ここに車を停め、ここから歩き始めました。
最初は、杉林の中の林道を歩いていきます。ここから舗装は無くなり、土の道、砂利道になります。
途中、左右に道が分かれますが、道なりに右手の道に行きます。
林道の行き止まりです。ここまで、歩いて15分〜20分でしょう。高須山の南の鞍部になっており、ここまで車で上がれるようです。ただ、途中、深いぬかるみのような水溜まりがありましたが。
ここからが本格的な登山となります。
こんな歩きにくい場所もありますが、総じて、登りやすい山道でした。
この何が書いてあるか、わからない標識のカーブを曲がると、頂上が近くなります。
頂上手前に、鷹巣城跡の説明看板がありました。
頂上です。
頂上には「贈正四位畑時能戦蹟・鷹巣城」の石碑があります。
頂上は、樹木がほとんど無く、広々として、四方の見晴らしがよいです。
高須山を下山すると、午後3時すぎとなりました。
これでゴールデンウィークの観光を終え、家へと向かいました。
北陸道に乗り帰路に向かいます。
途中、有磯海SAで休憩すると、夕日が日本海へ沈むのが見えました。
太陽は、地平線の雲の中に沈んでしまいました。午後6時半ごろでした。