平成24年9月 滋賀県への旅の二日目です。

  兵主神社

所在地:滋賀県野洲市五条566

 兵主神社は、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)です。奈良時代初めの創建という、滋賀県下でも有数の古社です。
 社伝によると、3世紀後半ごろ、滋賀郡穴太(現在の大津市)に社地が設けられ、さらに欽明天皇の時代に琵琶湖を渡って現在地に遷され、社殿が造営されたと伝えられています。
 以後、武士の崇敬を集めて隆盛し、源頼朝の神宝の寄進、足利尊氏の社殿造営・神領安堵などにより栄えたといいます。江戸時代には、徳川将軍家からも厚く保護されました。
   約3万4000平方メートルという広大な境内の入口には、足利尊氏の寄進と伝えられる朱塗りの楼門が立っています。 
   老樹に包まれた玉砂利の参道が100mほど続きます。
 その奥に拝殿と、流造の本殿が建っています。
 社宝として、源頼朝や徳川氏の武具が伝えられています。
 兵主神社庭園は、神社がこの地に移転してくる以前からあったと考えられており、もともと神社の庭としてではなく、鎌倉時代のこの地の豪族、播磨守資頼邸の庭園だったといわれています。
 庭園は、大規模な地泉廻遊式庭園で、池に中の島を浮かべて出島を作り、護岸の石組みや築山の三尊石組みなど、美しく、趣があります。
社殿脇の庭園は、平安時代後期の作といわれています。
 庭園の池をめぐる小道は、一面苔がむした間を縫って作られており、京都の西芳寺を思わせるような雰囲気です。

池汀の曲線の様子などに遺構がよく残っており、平安時代後期の作といわれています。

 苔がよく繁茂していますが、今年の夏が暑かったからか、少々元気がなさげでした。


  大笹原神社

 大笹原神は、滋賀県野洲市にある神社で、 須佐之男命と櫛稲田姫命(くしなだひめ)ほか五神を祀ります。 創建は平安中期といわれます。

所在地:滋賀県野洲市大篠原2375
本殿は国宝に指定されています。
村の鎮守のような神社(失礼ですが)に、国宝建築があるとは驚きです。社務所に人がいなかったです。
 素木造りの本殿は、細部に施された彫刻がすばらしいです。応永年間に領主馬淵定信が再建したものです。
本殿の右には、寄倍(よるべ)の池と呼ばれる沼があります。
 その昔、水不足から御輿を二基沈めて祈願したところ、日照りが続いても枯れたことがないと云われます。
 昔から底なしといわれています。現在は、底が見えるようです。夏の暑さで水量が少なくなっているのでしょうか。


 鏡神社

所在地:滋賀県蒲生郡竜王町鏡

この地に製陶技術を伝えた新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)を祀っています。東山道の宿場、鏡宿(かがみのしゅく)とともに古くから宋えました。万葉の女流歌人である額田王もこの地の出身といわれている

所在地:滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289 
このあたりは古道 東山道、中山道(現国道8号線付近)の宿場、「鏡の宿」として栄えました。祭神の天日槍は金工、製陶技術を教えた新羅王子と伝えられています。この地に製陶業を興し、村の発展に努めたので祖神として祀られ、崇敬・護持されてきました。
鏡の宿で元服した牛若丸は、この松の枝に烏帽子をかけ鏡神社へ参拝し、源九郎義経と名乗りをあげ、源氏の再興と武運長久を祈願したのでした。
 明治6年10月3日、台風により幹の部分を残して折れてしまいました。
また、源義経が清水で髪を落とした元服池や数々の文化財も興味深いです。
本殿は、南北朝時代の建築といわれ、重要文化財に指定されています。

 鏡の宿は東山道の宿場(宿駅)で、早朝に都を出た旅人の多くが最初の宿泊地としました。
源義経元服地
 16歳の遮那王(義経)は、稚児として預けられていた鞍馬寺を出奔しました。
 その日の晩に鏡の宿に到着すると、夜も更けてから自分で髻を結い、懐から取り出した烏帽子をかぶって元服しました。成人した名を付ける烏帽子親もいないので、自ら源九郎義経と名乗ったといいます。
義経元服の池
 源義経が鞍馬山で修行した後、京より奥州へ向かう途中で鏡の宿に泊まり、この池の水で前髪を落として元服したと伝えられています。
 義経元服の池から少し南に行ったところに平家終焉の地があります。
 義経元服地と平家の終焉の地がほんの少し離れた場所にあります。義経はこの辺りの地理に詳しく、この地を選んだのともいわれます。

 1185(元歴2)年3月24日壇ノ浦合戦で敗れた平家一門はことごとく入水、戦死しました。
 しかし一門のうち建礼門院(安徳天皇の母)、平家総大将:平宗盛(清盛の三男)と清宗父子は捕えられました。
平宗盛 清宗親子の胴塚(平家終焉の地)
 義経は、この地で、平家最後の総大将宗盛とその子清宗を処刑しました。屍を埋めたこの場所に墓標が立っています。
 また、墓の向かいにある池は、宗盛と清宗親子の首を洗ったという首洗池と言われます。が、池は、私には藪が見えるだけで、わかりませんでした。


 苗村神社
所在地:滋賀県蒲生郡竜王町綾戸467

 町の中央部にある大きな鎮守の森が国宝苗村神社です。
 近郷一帯33カ村にわたって氏子を有し、33年に一度行われる大祭は有名であり前回は昭和57年(1982)に行われました。社殿の多くが国宝や国の重要文化財に指定されています。
大きな鳥居と、先に見える大きな楼門が荘厳な雰囲気をかもし出しています。 
楼門(国需要文化財)
 荘厳な楼門をくぐると、国宝の西本殿があります。
 祭神は、国狭槌命(くにのさづちのみこと)です。
国宝の西本殿です。
本殿建物まで近寄れないので、屋根しか見えません。
 道路を渡り、東参道を進むと、国指定の重要文化財である東本殿があります。
 祭神は、大国主命・素盞嗚尊がそれぞれ安置されています。境内社の八幡社本殿・十禅師神社本殿などがあります。


  松尾神社庭園
所在地:滋賀県東近江市八日市松尾町3-13
 この地には昔、延命山尊勝寺という東大寺所属の寺があって、松尾神社はその寺の鎮守であったと考えられるところから、当庭園もその一部であったと考えられるそうです。
 しかし、一説では、永禄9年(1566)奈良興福寺、一乗院に隠れていた将軍足利義昭が、近江に佐々木義賢を頼った時、将軍を迎えるために義賢が作庭したともいわれています。
 それは、同将軍が信長に追われて、朝倉義景を頼ったときも、義景が一乗ヶ谷の居城に作庭しており、その庭園と松尾神社庭園とが時代的にも、あるいは様式、手法なども全く同一であるところから類推されたもので、この地に豪族の邸宅があったことも考えられます。
 山際に多数の石組を建てた豪放なものは、蓬莢石組。中央部一群の石組は、須弥山(しゅみせん)や、鶴亀島の形態を整えており、武家好みの力強い造園技術を偲ばせる名園です。

  船岡山と万葉歌碑
万葉の森船岡山を中心とする蒲生野一帯は、古代朝廷の遊猟の地で、額田王と大海人皇子(後の天武天皇)が交わした万葉集の代表的な恋歌の舞台と言われています。
 船岡山の麓には遊猟の様子を描いたレリーフや、万葉集に詠まれた植物を歌碑とあわせて紹介した万葉植物園が整備されています。
万葉集巻一の冒頭に近い部分に、次の相聞歌が載せられています。

天皇の蒲生野に遊猟(みかり)したまへる時、額田王のよみたまへる歌
  茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる

皇太子の答へたまへる御歌 明日香宮ニ御宇シシ天皇
  紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも

 天智天皇が群臣とともに蒲生野に狩をした時に、額田王と大海人皇子(後の天武天皇)との間に交わされた相聞歌です。
 恐らくは、皇子のほうから先に行動し、額田王が、こんなところで袖などお振りになると、野守にみとがめられますよと、たしなめると、皇子のほうでは「紫のにほへる妹」を恋わずにはいられないといって返すものです。

この後お昼を食べ、午後2時過ぎには、帰路に向かいました。
この日は三連休の初日でした。東名高速は、車の流れが多く、神奈川海老名辺りで事故渋滞が始まっていましたが、なんどか渋滞には巻き込まれず、茨城へ帰ることができました。