平成25年4月29日 能登
 前日から羽咋市内に宿泊していました。早朝6過ぎに宿を出発しました。
 
 気多大社
 この日は、まず早朝に、気多大社を参拝しました。
 気多大社の祭神は、大己貴命 (おおなむちのみこと) です。
 社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされます。
奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、「万葉集」に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。能登国一宮とされました。


 七尾城跡 
 七尾城は、石川県七尾市古城町にある中世の山城跡で、国の史跡に指定されています。
 七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城です。日本五大山城のひとつに数えられるほど強固な城でした。山城の歴史上重要な遺跡として、1934年(昭和9年)に、国の史跡に指定されています。
 七尾城は、正長年間(1428 - 1429年)頃にこの地に築かれたとされます。七尾城は、次第に拡張され、以後約150年間にわたって能登畠山氏の領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたといいます。
 山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っています。

 1577年(天正5年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲さますが、一年にわたって持ちこたえました。
 しかし、重臣同士の対立の末に9月13日に開城されました。この際、上杉謙信は七尾城からの景観に感動し、漢詩「九月十三夜陣中作」を詠んだといいます。

 越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに前田家が領有し、1589年(天正17年)廃城となりました。 
 七尾城がある山の上まで、車で行くことができます。
 駐車場から歩いていくと3、4分で石垣が見えてきます。七尾城は、開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、非常にしっかりと遺構が残っています。
本丸に向かう途中、立派な段組み石垣が迎えてくれます。
駐車場から本丸跡までのアプローチは、10分くらいでしょうか。本丸への石段が見えてきます。
七尾城 本丸
本丸跡にお社があります。
本丸の一番高所から、七尾南湾が見渡せます。感動させる景色です。
二の丸跡
本丸に次ぐ拠点です。
三の丸跡
曲輪のなかで最大規模だそうです。二の丸とは深い掘りきりで仕切られています。
安寧寺跡
 安寧寺跡には、畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で滅んだ武士達の慰霊碑があります。


 能登国分寺跡
 七尾城跡から、能登国分寺公園へ来ました。
 能登国分寺は、七尾市国分町に所在しています。
能登国分寺は、843年(承和10年)、能登国司に赴任した春枝王により、大興寺を国分寺に昇格。741年(天平13年)に聖武天皇が国分寺建立の詔を発布してから約100年経てからの建立でした。約400年の間栄え、いつしか廃寺となりました。
大正時代に発掘調査が開始され、1974年(昭和49年)に寺域南方の建物群跡を含め「能登国分寺跡 附建物群跡」として国の史跡に指定されました。
寺跡は史跡公園として整備され、1992年(平成4年)に能登国分寺公園として開園しました。公園内には南門と塀の一部が復元され、中門、金堂、五重塔、講堂、回廊などの跡が表示されています。
この中心の石は、五重塔の中心だった本物の礎石です。


 石動山
 石動山(せきどうさん、いするぎやま)は、石川県鹿島郡中能登町を頂上に、七尾市・富山県氷見市にかけて位置する山で、標高は565mあります。
 加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の勅願所となりました。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、知行四万余石をもち、修験の拠点として栄えました。衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられます。
 車で石動山の上部まで行けます。
伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)
伊須流岐比古神社は、石動山にある神社です。伊須留岐比古神社とも表記され、能登国二宮です。
動字石
「石動・いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだといいます。
この石は、石動山信仰のシンボルとして崇敬されてきました。
伊須流岐比古神社 拝殿
五重塔跡
 天正10年(1582年)の兵火で焼失し、山側に倒れたようです。
多宝塔跡
開山堂跡
梅の宮跡
 五社権現の一つで、鎮定大権現と称し、祭神を天目一筒命、本地仏を勝軍地蔵菩薩としていました。
石動山頂大御前へ向かって歩いてゆきます。
石動山頂大御前
 伊須流岐比古神社の鳥居からゆっくり歩いて20分ぐらいで、石動山頂に着きました。体が少々暑くなりました。
石動山城跡
中世の山城で、大御前からの峰続きの高台に築かれています。上杉謙信が七尾城攻略の際に、ここに陣取りしました。
東林院跡
広大な敷地に礎石がたくさん残っています。
智徳上人五輪塔
 智徳上人は奈良時代に石動山を開いた開山として知られています。供養等は、元禄年間に法院祐遍が願主となって建立したものです。
大宮坊跡
 大宮坊は、石動山の中心的な坊の一つで、最盛期(中世)には、360余坊すべてを支配した別当寺として、最も高い格式と権威を持っていました。  
書院台所棟が復元されています。
本堂跡
入母屋造りと推定されます。
庭園跡
宝池院跡
ここにもたくさんの礎石が残っています。大きな伽藍があったのでしょう。
旧観坊跡
 江戸時代にあった58坊のうち、現存する唯一の建物です。
 石動山の寺院群は、中世にあれだけ栄えていたのに、明治の廃仏毀釈で跡形もなく寺院・坊舎が無くなってしまったとは驚きです。日本人にとっての仏教とは、日本人とは何なんだろうと考えさせられました。

 石動山で観光を終了し、茨城県への帰路へ向かいました。富山県では、山々に雪がたくさん残っていました。
 この後は、射水市内を経て、小杉ICから北陸道に入りました。
 北陸道を北上し、新潟県内の長岡JCTから関越自動車道に入り、北関東自動車道から帰ってきました。関越道・北関道ともGWなのに空いており、スムーズに帰れました。