平成25年12月 熊本県
 早朝に熊本市内をレンタカーで出発し、菊池市にある台城跡へ来ました。寒いです。

 台城(うてなじょう)(別名:水島城)
台地丘陵を利用して築かれた城で、菊池18外城の一つに数えられますが、築城年代はよくわからないとのことです。
 天授元(1375)年、南朝方の菊池家17代目当主・菊池武朝が、九州探題・今川了俊率いる北朝方の軍勢を撃ち破った水島の戦の古戦場跡でもあります。   
 大圓寺
 菊池市にある大圓寺へ来ました。寺には「墨染めの桜の碑」があり、14代菊池武士が詠んだ歌が刻まれています。付近には南北朝期のものとされる宝篋印塔が立っています。   
 鷹取城跡(染土城跡)
 源為朝がここで鷹を射たというのが城名の由来とのことです。道の脇に石柱がありましたが、どこが城跡かわかりませんでした。   
 聖護寺
 菊池市街地から県道133号線を竜門ダム方面に向かって進み、鳳来地区から案内板に従って小道を登っていくと、山中に聖護寺があります。車一台しか通れない道で怖いです。二度と来ないと思いながら車を走らせました。帰路で、2台の車とすれ違いました。   
聖護寺は、延元元年(1338)に菊池第13代菊池武重が大智禅師を招いて開山しました。菊池一族の精神のよりどころとなっていました。その後600年くらいの間廃寺となり、現在復興されています。   
 正観寺
 正観寺は、南北朝時代肥後守15代菊池武光が、大方元恢和尚とその師である秀山元中和尚を招き、興国5(1344)年に開山したもので、菊池氏全盛の頃は末寺十数寺を抱え、西国屈指の大きな寺でした。   
 菊池能運の墓
 菊池能運の墓は、菊池グランドホテルの敷地内にあります。元々は正観寺の一部で実相院で、菊池能運夫妻の墓があります。   
菊池能運(きくち よしかず)は、戦国時代の武将で、菊池重朝の長男の子です。肥後菊池氏22代です。文亀元年、大叔父宇土為光に肥後守護職を奪われます。2年後、為光が能運の家臣にたおされ、能運は守護職を回復しますが、文亀4年2月、23歳で死去しました。   
 菊池武光の墓
 菊池武光の墓は、正観寺にあります。足利氏の勢力が強いなか、懐良親王は、菊池武光の協力によって正平20年(1365)には九州を平定し、太宰府に西政府を樹立しました。文中元年(1373)室町幕府は今川了俊を派遣し大攻勢に転じました。この攻防戦で武光は、翌2年に没したと伝えられます。   
 東福寺
 東福寺は、天慶元年(938)證慶法印の開基といわれ、かつては末寺も15か寺を数えました。菊池15代武光の代、菊池五山が制定されたとき東福寺も五山の一に列せられましたが、慶長6年(1602)肥後が加藤清正の統治下にあったとき、寺領はすべて没収され末寺も失いました。   
現在は、無住のお寺のようです。   
 菊池武重の墓
   東福寺から下の田んぼを望むと、菊池武重の墓が見えます。   
菊池武重は、肥後菊池市十三代の武将で、南北朝時代、後醍醐天皇に味方し東奔西走し、足利氏と戦い続けますが、延元3(1338)年ごろ病により死去しました。
 一族の結束のため、菊池家憲「寄合衆内談の事」という血判文書をつくりました。
 将軍木
   将軍木と呼ばれる巨大な椋の木です。菊池高校の正門の近くにあります。  
 南北朝時代、征西将軍宮懐良親王が、当時勢力のあった菊池氏を頼りこの地に西政府を置かれたとき、宮の杖から芽をふいたとも、御手植の木とも伝えられます。将軍木の名も、この懐良親王のちなんでつけられたものです。
 菊池武光銅像
菊池神社の麓に、菊池公園があります。
 北宮阿蘇神社
 祭神は、国造速瓶玉命です。天寿4年(1378)、菊池氏16代武政が阿蘇大明神を勧請し、菊池の郷社として創建された神社です。
 社宝の伝征西将軍宮軍配扇は市の指定文化財となっています。訪れた際、社家の方達が境内の清掃をしていました。
 所在:菊池市北宮64
 鞠智城(きくちじょう・くくちじょう)跡
 鞠智城は、今から約1300年前に、大和朝廷が築いた米原大地を中心に広がる朝鮮式山城です。城の南の城門「堀切門」と「深迫門」が菊池市に所在します。
 白村江の戦い(662年)で新羅と唐の連合軍に敗れた日本は、新羅の侵攻に備え、大宰府の防備として天地4(665)年に朝鮮式山城「大野・基肄(きい)城」を築造しました。
 城は周縁部と、土塁で囲まれた内城からなり、全体の面積120haで、大宰府への兵站基地とも考えられています。
 鞠智城跡は国史跡に指定され、現在も調査を進め、城の中心部「長者原」地区で67棟の建物跡を検出しています。
 施設の復元も進められ、八角形の鼓楼や兵舎・米倉が復元され、往時の城郭や城内での防人の銅像が設置されています。

所在:山鹿市菊鹿町米原
 碧巌寺
 1466年頃に菊池家20代 菊池為邦が肥後守護の職を嫡子重朝に譲り、碧巌寺を開山しました。隠居した為邦はここで学校を開き、多くの家臣が学んだといいます。
 庭園はその時に作られたと考えられ、コンパクトな庭ですが、龍門瀑がある室町風の庭園の特色がよく残っています。
 所在:菊池市七城町亀尾1952
 亀尾城跡
亀ノ尾城は、関部家が代々居住したといい、曲輪、土塁、堀が残っています。別名、板井城ともいいます。
 亀尾城跡は、菊池川を望む台地上にある。麓には21代為邦が開いた碧厳寺があります。
 今川貞世は水島の陣での教訓から、防御に優れたこの地に本陣を置き(板井の陣)、菊池川を挟んでじっくり菊池本城をにらみました。
 数万の軍を駐屯させ、打越城、菊之城を攻め落とし着々と本城に迫り、本城、染土城を陥落させました。
 城跡には、板井熊野座神社が現在鎮座しています。いちょうの葉が落葉して、地面が黄色のカーペットになっていました。
 亀尾城跡の遠望
 安国寺釈迦堂
 足利尊氏・直義が全国に設けた安国寺跡と伝えられます。
 永正6年(1509)、豊後大友氏の軍と戦って敗れた菊地政隆は当寺で自害したと伝えられ、菊地政隆墓が寺の奥にありました。
所在:菊池市泗水町豊水644   

 まだまだ明るいうちに観光を終了し、熊本空港へ向かい、帰路へと着きました。帰りの飛行機も順調で予定通りに家に帰り着きました。


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