平成26年5月 長崎県 2日目

 島原城
1616年(元和2年)有馬直純が日向国延岡藩に転封になり、代わって松倉重政が有馬氏の居城であった日野江城に入城します。

元和4年(1618年)、日野江城は手狭であったので、松倉重政は島原城の築城を開始し、1624年(寛永元年)島原城が完成しました。
成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石でしたが、総石垣で天守と櫓49棟を建てました。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となりました。
 昭和に復元された五層の天守閣は立派です。
城は松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、松平氏と4氏19代253年間の居城でしたが、明治7年(1874年)に廃城となり、民間に払い下げられました。

以後、文字通りの荒城となっていたが、昭和39年(1964年)、本丸に天守閣・櫓・長塀が復興され、現在は城跡公園となっています。
島原城は、有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置しています。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴です。
復元された櫓です。
本丸から二の丸へ通じる道路です。
本丸から二の丸の間の堀
本丸から二の丸間には、昔は橋があったのでしょうが、それを切ると、まったく分断され、本丸が防御しやすくなります。
本当に立派な石垣とお堀です。とても4万石の大名とは思えません。過分すぎる城です。

 武家屋敷
 島原城から歩いて武家屋敷へ来ました。
 島原城築城と同時にできた扶取七十石以下の武士の屋敷跡です。7つ町筋が碁盤の目のようにできています。家と家との皆壁も境界もなく,鉄砲のように筒抜になっていたところから,総称して鉄砲丁とも呼んでいます。
 また通りの中央に溝を堀り飲料水を流していたが現在は下の丁だけに残っています。
 島田邸 
 名前はわかりませんが、きれいな花が咲いていました。
 島田邸の邸のなかまで公開されています。
 生垣の向こうに見えるのが山本邸です。

 沖田畷戦古戦場跡
 島原市内を車で走っていた、この看板が目に留まりましたので見学しました。
 沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本の戦国時代の1584年(天正12年)3月に肥前国島原半島で勃発した、九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦であす。 畷とは湿地帯の中に延びた小道の意味です。  
 古戦場跡は、現在とある企業の敷地になり、建物の裏手に、龍造寺隆信の供養塔と、沖田畷の戦いの由来を記した案内看板が立っています。龍造寺隆信は、大軍にとっては不利な場所で戦い、大将の龍造寺隆信が打ち取られて、総崩れとなってしまいました。

 多比良城
 多比良氏が南北朝時代には南朝方として活動し、戦国時代には日野江の有馬氏に従っていました。
 国見高校の前に、多比良城標柱が建っていとの情報を知ったのですが、道路工事中で、標柱は見つかりませんでした。

 神代城
 神代城は鶴亀城とも呼ばれ、有明海に面した比高15m程の高台に築かれています。神代城は、神代貴益が鎌倉時代後半に築いたといわれているが定かではなく、南北朝時代以降、代々神代氏の居城でした。
 本丸は神代神社が鎮座している所で周囲を高土塁が巡らされています。
 二の丸は広大で、殆ど開墾されており地形も大きく変わっています。現在は、畑として利用されているようです。
 神代城は、三方を海に囲まれた台地の上に築かれた海城です。

 杉峰城跡
 築城年代は定かではないが南北朝時代には既に築城され西郷氏が城主でした。観応3年・正平7年(1352年)南朝側として西郷氏が守っていましたが北朝側の小俣氏連に攻められ落城しました。
 城跡への登りを登ってゆきますが、林とやぶで遺構はわかりませんでした。平場の奥に、神社なのか建物がありました。
 先の山・丘陵が杉峰城跡です。

 山田城跡
 山田城は、応安5年・文中元年(1372年)田原氏能によって築城されました。 後に山田氏の居城となり山田氏は有馬氏に仕えます。 慶長19年(1614年)有馬氏が転封となるとそれに伴い移ったため廃城となりました。
 城跡への登り坂を登ってゆきます。
 現在山田城址公園として整備されており比較的良く遺構が残っている。
 私が歩いてきた道とは別に、車道が集落からありました。駐車場とトイレもあります。
 また、展望台が設けられており最上部からは物見台を中心として城が見渡せる。
 有明湾が見えます。
 なかなかいい長めです。

 山田城を出発、島原半島を離れ、約25km車を走らせ、佐賀県太良町竹崎にある竹崎城跡へ来ました。
 竹崎城跡展望台
 竹崎城跡へ来ました。
所在地:佐賀県藤津郡太良町大浦竹崎
 きれいな花です。
 竹崎城址近くに立つ城型展望台が建てられています。有明海を初め360度の大パノラマを見渡すことができます。。
 竹崎城は南北朝時代に島原の有馬隆泰によって築城されました。その後戦国時代の末、龍造寺家晴により修築され島原の乱の後取り壊されたと伝えられています。
 現在では石垣の一部と空壕が一条残っているだけです。

これで、一泊二日の長崎県観光を終了し、長崎空港に向かいました。
飛行機は、長崎から羽田空港まで2時間足らずで帰れてしまうので、非常に便利な時代だなと思います。