平成26年8月 長野県への歴旅 三日目

大鹿村の夜泣き松を見学にきました。道路わきに車を停め、歩いて行きます。

この道路の下部も、中央構造線が通っています。   

 夜泣き松
夜泣き松は、赤松の木で、樹高15m、周囲4.6m、樹齢約700年と言われています。
言い伝えによると、駿木城主児島高春の息女に美祢姫という姫がおり、興国の頃、宗良親王につかえ、やがて身籠った姫は一女を生み、駿木城で育てていました。
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しかし、赤子の夜泣きがひどく姫はたいそう弱っていました。その話を聞いた河合に住む村人は、近くの観音堂に祈ると、観世音菩薩が夢枕に立ち、堂前の松の小枝を持ちて枕辺に供せ、即ち霊夢に従うや忽ち夜泣き止むと、告げました。

この松の枝を取って夜泣きする子の枕元に置けば効験あるとの言い伝えが残っています。以後この松は「夜泣き松」と呼ばれました。
夜泣き松の根元に、ユリの花が咲いていました。

 桃井城跡
長野県松川町にある、桃井城跡を見学にきました。
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桃井城は、南北朝時代に足利氏に仕えた桃井直常の居城、あるいは室町時代に築かれた城ともいわれています。

直常は室町政権樹立後、主に北陸地方の守護に任じられましたが、足利尊氏が弟の直義と不和を生じると、直義に味方して幕府主流派と対立しました。
桃井直常は、直義没後は、足利直冬を推し立てて反幕府勢力として活動し、その後も幕府に反抗して反乱を企てるなどの行動をとりましたが、その最後はよくわかっていません。

桃井城は、室町時代に桃井氏の後裔の城として存在していたものと思われます。桃井直常の伝承以外については多くを伝えていません。
 空堀のようです。
 本丸跡に、部奈建神社がたっています。後醍醐天皇の娘の厳子内親王に仕えた、桃井城主の娘の「お建さま」の伝説があります。

 常福寺
長野県伊那市にある、常福寺にきました。
常福寺は、曹洞宗の寺院です。 
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お寺には、後醍醐天皇の皇子、宗良親王の尊像と いわれる木造が安置され、その裏山は「御山」といい、 宗良親王の墓石「無縫塔」が祀られており、宗良親王と所縁深いお寺です。
宗良親王の墓石「無縫塔」
「尊澄法親王」、その左側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻まれています。 

尹良とは、宗良親王の皇子であり、ここには宗良親王のお墓があったのではないかといわれています。

 桔梗ヶ原古戦場跡
桔梗ヶ原は、南塩と北塩の流入路の接点ともいわれ、さらには中山道・伊那街道・北国西街道と、松本平南端の交通の要衝としての歴史をもつ所です。
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桔梗ヶ原は、交通の要衝であったため、合戦の場となりました。

南北朝時代、1355年8月、南朝方の宗良親王と北朝方の信濃守護 小笠原長基との合戦が行われました。

1553年5月、武田信玄と小笠原長時が桔梗ヶ原で戦いが繰り広げられました。
現在のの桔梗ヶ原は、住宅地、学校等が建つ文教地区となっています。

 井川城跡
井川城跡は、長野県松本市にあった信濃国守護の館跡です。
1334年、小笠原貞宗が信濃国守護に就任し、伊那郡松尾(長野県飯田市)から信濃府中(現在の松本市)に居住を移しました。水が豊富で、一帯が井川と呼ばれていたため、井川城と呼ばれました。
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現在は、田畑の隙間に城郭の跡が残されているだけで、周囲は宅地化されています。

城跡の案内看板はありますが、住宅に囲まれた田んぼの真ん中にあるため、わかりにくい場所です。
現在も、豊かな水量の川が流れています。

 広沢寺
広沢寺(こうたくじ)は長野県松本市里山辺にある曹洞宗の寺院です。開山は雪窓一純。
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嘉吉元年(1441年)、信濃守護で松本井川城主の小笠原政康が創建し、福井県南条郡南越前町の慈眼寺を本寺として、雪窓一純を迎えて臨済宗の寺として開創しました。小笠原家の菩提寺であることから廃仏毀釈を免れました。

広沢寺には、大坂夏の陣で戦死した、小笠原秀政と息子、忠脩の墓標である五輪塔があります。
広沢寺の伽藍は、近年、大々的に建築されたように見受けられました。大名の菩提寺といえる堂々たる大寺院です。
もう、午後2時を過ぎていたので、観光を切り上げ、帰路に向かいました。
高速に入って、少し小雨が降りました。高速道路は、上信越道〜北関東自動車道を通り、ほとんど渋滞もなく、スムーズに帰宅できました。