平成27年10月18日(日) 熊本県への旅 二日目の午後

熊本城の見学を終了し、近辺を歩いて見て回りました。
山崎菅原神社
 山崎菅原神社、熊本市桜町に位置しています。
山崎菅原神社は、延久二年(1070)に創建されました。古くより学問の神様として知られています。
 古城跡
 熊本古城は、大永・享録年間(1521年〜1531年)に鹿子木親員によって築かれたといわれます。
  その後は城氏の持城となりましたが、豊臣秀吉の九州征伐の後、佐々成政が肥後一国の領主として入部しました。
 佐々成政にかわって加藤清正が北肥後に入部すると、千葉城と熊本古城を含む広大な敷地に熊本城を築きました。
大田黒伴雄終焉の地
神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱です。政府軍に攻撃され、神風連の変の首領 太田黒伴雄は、重傷を負いました。
 大田黒伴雄は、この法華坂まで退き、民家を借りて介錯させました。
安国寺
明巌梵徹(ぼんてつ)は、小倉時代の細川忠興に招かれて小倉城下の安国寺に入りました。その子・忠利が熊本に転封となったため、梵徹も大般若経660巻をたずさえて熊本にやってきました。
 細川忠利は、加藤家改易によって廃寺となっていた弘真寺に梵徹を入れ、寺号を泰平山安国寺と改めました。

 水前寺成趣園
 水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)は、熊本県熊本市中央区にある大名庭園です。通称は水前寺公園です。面積約は7万3千平方mあります。
 水前寺成趣園は、豊富な阿蘇伏流水が湧出して作った池を中心にした回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木も素晴らしいです。
 水前寺成趣園は、熊本藩細川氏の初代藩主細川忠利が寛永13年(1636年)頃から築いた「水前寺御茶屋」が始まりとされます。細川綱利のときに泉水・築山などが作られ、現在見るような形となりました。
 池の中に、飛石と清冽な水に浮かぶ松の影が見ます。水が澄んでいて、きれいです。
鳥が松の枝にとまっていました。
 1878年(明治11年)に肥後細川家の歴代藩主を祀る出水神社が園内に創建され、庭園は出水神社の社地として、政府から払い下げられました。
 細川藤孝公と細川忠利公の銅像です。
 よく管理されている大名庭園です。
 あまりにも素晴らしく、ほれぼれと見学していました。お天気もよかったです。

 横井小楠記念館 
横井小楠記念館に来ました。見学したかったのですが、車を停める駐車場が判らず、見学を断念しました。

 小楠公園  
  この小楠公園には横井小楠の墓(髪塚)と小楠先生頌徳之碑および小楠銅像が建てられています。
 幕末の政治家・思想家。文化6年(1809)肥後藩士横井時直の二男として城下・内坪井(現熊本市)に生まれました。
 私塾小楠塾を開き藩政改革派を育てました。福井藩の招へいにより藩政改革にあたったり、幕政改革に参画したりし、勝海舟とも親交がありました。明治元年(1868)上京し、維新政府の参与に任ぜられ、活躍が期待されましたが、明治2年攘夷論者の凶刀に倒れました。

 武蔵塚公園 
 二刀流の剣豪・宮本武蔵はその晩年を熊本で過ごし、熊本の千葉城にあった家で、62歳の生涯を閉じました。
 熊本時代は、肥後藩主細川忠利公の客分として招かれ、金峰山の霊巌洞という洞窟で「五輪書」を完成させ、茶や書画の道にあたるなど、剣と人生の集大成ともいえる時期を過ごしたといわれています。
  その死後も藩主を見守りたいという遺言から、参勤交代の行列が通る大津街道(現在の県道337号)沿いに墓が建てられ、そこが現在の武蔵塚公園となっています。
 園内には、ニ刀を携えて立つ武蔵のブロンズ像も置かれ、日本庭園や茶室などもある緑多い静かな公園となっています。 
緑が多い静かな公園となっています。
よく整備・管理されている公園です。
 武蔵塚公園で、二日間の観光を終了し、熊本空港へ向かいました。
 途中、阿蘇山の噴火の噴煙が見えました。
 帰りの飛行機も順調に飛んで成田空港へ着きました。

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