平成27年12月 愛媛県二日目
 早朝に、松山市内のホテルを出発しました。

 由並城
所在地:愛媛県伊予市双海町上灘(本尊山)
 築城年代は定かではないが南北朝時代に築かれたといわれます。建武3年(1336年)で、祝安親が合田弥四郎の籠った由並之城を焼き払いました。
 戦国時代には代々由並氏の居城で天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景によって開城となりました。
西の麓にある天一神社に車を停めます。
天一神社の脇を降りて、線路を渡り、そこから山へ通じる道を登っていきます。
こんな藪のような道の登っていきます。
 由並城は上灘川の河口北側にある標高187mの本尊山山頂に築かれている。
 本尊山は東の山塊かはり出した尾根の先端が小高くなった山で、山頂付近は切り立った崖に囲まれた天然の要害となっています。
 由並本尊城は山頂に主郭がありますが、山頂の西側は岩山でもともとは天一神社が祀られていました。
山頂からは眺めがいいです。
由並城跡がある本尊山の遠望です。

 大洲城(おおずじょう)
所在地:愛媛県大洲市大洲
大洲城の南隅櫓
 大洲城の外堀に面した櫓が残る公園。大洲城に現存する4つある櫓の1つで、国指定重要文化財に登録されています。櫓は二層二階建てです。
 中江藤樹邸跡
 中江藤樹(1608-1648)は、江戸時代の陽明学者で、陽明学の確立と「知行合一」の道を実践し、後年「近江聖人」と称えられました。
 藤樹が住んだ屋敷跡は、昭和14(1939)年、藤樹の遺徳をしのび、敷地の一部を造成して「至徳堂」が建築されました。
 大洲城は伊予国喜多郡大洲にあります。 
 この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。
 豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行います。
 宇都宮氏は、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏しました。

 天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。
 しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。
 その後戸田勝隆が城主として入りますが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。 
また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えました。 
中江藤樹の銅像
中江藤樹は、「近江聖人」と称えらました。
天守
 天守は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し渡り櫓で連結した複合連結式層塔型4重4階です。
現在の天守は、大洲市市制施行50周年記念事業として平成16年(2004年)に竣工したもので、戦後初の当時の工法・木造で復元されたものです。
明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形(木組み模型)など内部構造を知ることができる資料が充実していたため、往時の姿をほぼ正確に復元することができました。
肱川の対岸から見た大洲城です。

 龍王城
所在地:愛媛県喜多郡内子町五十崎
 龍王城の室町時代初期の城主は久保高実で、地頭としてこの地を領していた。 高実は松前城の合田弥四郎とともに伊予の南朝方として活躍しました。
 戦国時代は城戸氏が城主で曽根城主の曽根宣高との戦いに破れ滅びました。
城跡は公園として整備され、大きな滑り台がありました。
現在は龍王公園として整備され櫓のような展望台が建てられています。
展望台の上まで登ると、街並みが一望できます。
 

 宇都宮神社
所在地:愛媛県喜多郡内子町内子町五百木2306
龍王城の近くに鎮座しています。
祭神は、大己貴命、武御名方命、事代主命です。

 新田八幡神社
所在地:愛媛県喜多郡内子町中田渡甲1589

 祭神は、新田義宗です。父は、新田義貞で、義宗は三男にあたります。
新田義宗は、長兄・義顕は父に先立ち戦死し、父が戦死後、三男の義宗が嫡子として扱われました。
 新田義宗は、1352年、足利尊氏との戦い「武蔵野合戦」を行い,敗れてしまいました。
一般的には その後、越後へ落ち延びたと言われますが、この後の行方が、はっきりとしていません。
 新田義宗は、河野通義の力を借りて、宇和島を経て田渡村に入り、中田渡岩木の森(新田八幡神社鎮座地の前方)に住居を構えました。
 この場所から、東方を眺め、吉野朝廷を偲んで、千本桜を懐かしみ、東方の谷を桜原谷と呼び、また、谷と合流する川を吉野川と名付けたといいます。
 やがて年老いて義宗は 明徳4年(1393)8月8日 現神社のある宮坂で息を引き取りました。
 村人達は手厚く埋葬し、ここに 「新田武義社」 という小社を建て、「武神八幡」 として祀ったのが、この神社の起源です。

 千里城跡
所在地:愛媛県伊予郡砥部町川登字千里

 千里城は、平安時代末期の保元・平治の乱の頃に河野通豊が築いたとする伝承があります。元弘・建武年間(1331年〜1338年)頃には,大森次郎左衛門盛清とその子彦七盛長が築いて大森氏一族の居城となったといいます。
 文亀3年(1503年)に荏原城主の平岡下総守が河野通宣に反旗を翻し、一時千里城を占拠したが、再び大森氏の居城となりました。
 千里城は銚子ダムの東に聳える標高592mの千里山(城山)山頂に築かれています。
 現在は町指定史跡となっており登山道なども整備されています。
 登山道の手前に車を停められるスペースがありました。
ここから登っていきます。
登山道がよく整備されています。
 千里城は山頂から北東、そして西へと伸びる尾根に曲輪を連ねる連郭式の山城です。

 主郭は山頂にあり北東下に一段の腰曲輪、南東下は武者走りになっています。
 主郭への登りです。
主郭
 杉木立となっています。見晴らしはよくありません。
 千里城跡の遠望です。
銚子ダム
銚子ダム公園
 公園は、銚子ダムに隣接する豊かな自然の中に整備されたレクリエーション公園で、キャンプ場の他に運動広場や休憩広場などが整備されています。
 この公園からも千里城跡への登口があります。

 これで、観光を終了し、松山空港へ向かい、帰路につきました。