平成28年1月24日 香川県二日目
 今日のお天気は、複雑なお天気でした。
 朝のうちは小雪が舞い、その後晴れ、そして曇り、ときどき雪のお天気でした。

 志度寺
 志度寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を造立し、堂宇が建立されたといいます。創建は626年(推古天皇33年)。
 681年(天武天皇10年)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」として名づけたといいます。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えています。

室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄しますが、その後、戦乱により寺院は荒廃しました。
 生駒親正による支援などを経てのち、1671年(寛文10年)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により寺は再興さましれた。
本堂
1670年(寛文10年)の建立です。
五重塔
 1973年から着工され、1975年5月に落成しました。地元出身の実業家竹野二郎によって寄進されたものです。高さは33mあります。
生駒親正の墓所
 自性院(じしょういん)常楽寺
志度寺の塔頭寺院です。
こちらには、平賀源内の墓があります。

 志度寺を観光している最中は、雪が舞い、とても寒くて、手がかじかんでました。

 新田神社(細川清氏の墓)
所在地:香川県木田郡三木町下高岡
 細川清氏は、阿波(徳島県)の出身で、足利氏(北朝)に従い相模守に任ぜられていました。やがて、不仲の佐々木道誉(どうよ)に謀反の疑があると讒言されました。
清氏は、無実を訴えたが許されず、阿波へ帰り南朝(天皇方)へ付きました。
清氏は四国で兵を集め、完治元年(1361)三木郡白山(下高岡白山)へ来て挙兵しました。

 清氏は、白山を出で白峰の高屋城に入り、北朝の細川頼之と対戦しました。
 清氏の方が武力に優れ、軍勢も多かったのですが、知力に勝る頼之の陽動作戦にかかり、あえなく戦死をしました。
清氏の遺骸は、宝蔵院極楽寺の住職が引きとり、白山の西麓に葬りました。
現在、この地に小さな五輪塔が立っていて、これを清氏の墓とし、土地の人達は新田さんと呼んで、毎年八月二十六日にお祭りをしています。 
細川清氏の墓
 この頃、お天気がよくなってきました。青空も見えてきました。不思議です。
 極楽寺
所在地:さぬき市長尾町
 紫雲山宝蔵院といいます。真言宗嵯峨大覚寺派に属します。本尊は藤原時代の作といわれる薬師如来の木造立像(国重要文化財)です。
「極楽寺宝蔵院古暦記」によると、応仁の乱のときの文政元年(1446年)12月に、細川氏が寺領を寄進して、山名追討のことを祈願したといいます。
 亀鶴公園
所在地:さぬき市長尾町
亀鶴公園の宮池は、正中19年(1364)、細川頼之が築造したといわれています。
 宇佐八幡宮
宇佐八幡宮は、承平6年(936)に豊前宇佐八幡宮から勧請されたものであり、室町時代、長尾郷の総鎮守として守護細川氏から厚く尊信されました。
 脇屋城跡
所在地:東かがわ市大内町丹生
 脇屋義治は義助の子、新田義貞の甥です。常に父と共に吉野朝の為に戦ってきた正平七年三月、従兄新田義興とその弟義宗は上野で兵を挙げ尊氏と金井原で戦う義治は義興と共に戦って一度は鎌倉を占領しましたが、三月には鎌倉から退き相模の国府津の山に隠れます。
 その後足利氏は、新田氏及び脇屋氏などの一族を追い求めることが急なので、義治とその子義長は讃岐に渡り、大内郡丹生の長福寺に隠れて土居氏の一族ということで住み着いたといいます。ここが「脇屋庵」と称し城跡です。
 東かがわ市から、高松市内へ向かいました。またお天気が悪くなってきました。

 栗林公園
所在地:香川県高松市栗林町
 栗林公園の起こりは、16世紀後半、元亀天正の頃、当地の豪族佐藤氏によって築庭されたのに始まるといわれ、寛永年間(1625年頃)に、当時の讃岐国領主・生駒高俊(たかとし)公によって南湖一帯が造園され、現在の公園の原型が形作られました。
 その後、寛永19年(1642年)入封した初代高松藩主・松平頼重(よりしげ)公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれ、さらに100年以上経た延享2年(1745年)、5代頼恭(よりたか)公の時に、園内六十景命名をもって完成しました。以来、明治維新に至るまでの228年間、松平家の下屋敷として使用されました。
 栗林公園は、アメリカの庭園専門誌ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニングの2011年日本庭園ランキングにおいて、足立美術館(島根県)、桂離宮(京都府)に続く3位を獲得しました。
 明治4年(1871年)高松藩が廃せられ、新政府の所有となり、明治8年(1875年)に県立公園として一般に公開されるようになり、さらに昭和28年3月には、文化財保護法による「特別名勝」に指定されました。 
1月でまだ寒いのに、紅梅が咲いていました。
梅の木がたくさんあります。
広い池と園地です。
栗林公園碑
三条実美の筆によるものです。
小川のせせらぎがありました。
栗林公園という名ですが、公園内には、松の木が多いです。立派な松の木です。
商工奨励館
 明治32(1899)年に、香川県博物館として建てられた建物です。
 昭和13(1938)年より、商工奨励館と改められました。
鶴亀松
 110個の意思を組み合わせ亀を形どった岩組の背中に鶴が舞う姿をした黒松を配したもので、園内で最も美しい姿をした松をいわれています。
紫雲山を借景として6つの池と13の築山を配した大名庭園で、回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなっている。面積は約75haと、特別名勝に指定されている庭園の中では最大の広さである。
借景の紫雲山と池がいいです。とても広大な公園です。
このころから、雪が舞い始めました。
とても寒いです。
雪の降り方が激しくなってきました。
南湖
雪が激しく降り、寒さもきびしいので、栗林公園の観光を終えることにしました。

また、いつか、気候がいい時期に再訪したいと思います。

 栗林公園の観光を終え、昼食を食べていると、雪が止んできました。
 香川県観光の最後に、高松城跡・ 玉藻公園を見学することにしました。
 高松城
 高松城は、別名「玉藻城」とも呼ばれます。
 高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐一国の領主となった生駒親正によって、港町に築かれました。さらに、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されました。近世城郭の海城でした。
 現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されています。
披雲閣
 江戸時代にもこの場所に、約2倍の規模で政務が行われる場所、藩主が生活する場所として「披雲閣」と いう名前の御殿がありました。現在の披雲閣は、明治維新後、老朽化を理由に取り壊された旧披雲閣を高松 松平家の12代当主ョ寿伯爵が大正3年に再建に着手し、3年余りの歳月をかけ大正6年(1917年)に完成したものです。平成24年7月9日には国の重要文化財に指定されました。 
北の丸月見櫓
1947年(昭和22年)2月26日、国の重要文化財に指定されました。
毎週日曜日、一般公開されています。
天守台跡
高松城には、現在天守はありません。
天守台からの眺めはいいです。かなり高さがあります。
城の近くに、高いビルとホテルがあります。
ここでも、かなり寒くて、歩いていても寒いです。
いい加減、寒さが嫌になり、本日の観光を終了し、また休憩することにしました。

午後4時すぎに、高松空港へ向かいました。
空港へ向かう途中、雪が降りだし、あっという間に、道路上は雪が積もり、真っ白になってきました。
高松空港は、小高い山の上にあります。車のタイヤはノーマルタイヤです。
気持ちがひやひやしてきました。登り坂を登れるか心配しましたが、なんとか空港の手前にあるレンタカーの店舗に行きつくことができました。その後、空港に送ってもらいました。

高松空港周辺でも雪がうっすらと積もっていました。


飛行機は遅れがでており、1時間半以上出発が遅れました。それでも、なんとか成田空港まで帰ることができ幸いでした。