- 「千葉寺縁起」によれば、和銅2(709)年、行基がこの地を巡錫していると、池に1本の茎に2つの花、1000の葉を持つ青い蓮華があり、花の中には阿弥陀如来と観音が並んで説法してたという。この瑞兆を見た行基が観音像を刻み奉安したのが千葉寺の草創である。
- 聖武天皇の世(724〜749)には、天皇の勅願により、海照山(現在は海上山)の山号が与えられ、十八間四面の大きな観音堂が建てられて栄えたという。
- 火難で寺域を移したという伝承もあるが、発掘や考古学的な調査の結果、少なくとも奈良時代の後期には金堂を中心に、南大門、東大門、西大門、講堂などの伽藍が並んでいたことが確かめられている。
- 延暦元(1160)年、落雷のために堂宇や寺宝の全てを焼失したが、本尊だけは近くの桜の木の枝に難を逃れた。以来、本尊をご開帳すrときには、必ず、季節に関係なく花が咲いたという。
- 中世には、下総一帯に勢力を誇っていた豪族・千葉氏の勅願所として栄え、源頼朝もこの観音に祈願し、平家打倒を果たした。報恩のため、頼朝は千葉常胤(つねたね)に命じて、運慶作の愛染明王像を寄進している。
- 千葉氏は豊臣秀吉の小田原城攻めの際、北条氏とともに滅亡したが、寺は徳川家の保護で反映。しかし、度重なる火災で次第に寺運は衰退した。
- 文政元(1818)年に建立した観音堂も昭和20年の戦災で焼失。
- 現在の本堂が再建されたのは、昭和51年のことである。
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