栗林義長は、女化原の狐の子孫!?

 栗林下総守義長は歴史上の実在の人物で、室町時代末(戦国時代)に主に現在のつくば市南部・伊奈町・牛久市を本拠に活躍していたとされる武将です。

 伝説によると、栗林下総守義長は戦国時代の岡見氏の重臣で、「関東の孔明」といわれた知略家でした。

 栗林義長の詳細な伝記は不明ですが、次のような女化原の狐の子孫であるという「伝承」が残されています。

 常陸国岡見氏の重臣・栗林下総守義長は、常陸国河内郡根本村の農夫、忠七の三男、竹松の孫であると言い伝えられており、 「常総軍記」巻十に次のように記述されています。

 根本という里に、忠七という名の農夫がおりました。忠七は貧しくても心は慈悲深く正直者で、母に孝行をつくしていました。
 ある時その母が病気になったので、土浦まで薬を求めに行った帰り路、忠七は根本が原にやってきました。そこは人里から遠く離れた野原で、道を行く人も稀でした。その野原の松のかげに、一匹の古狐が寝ているところを、猟師が忍び足で近づき、射とめようとねらっておりました。これを見た忠七は、狐を可哀想に思い、助けてやろうと「ごほん」と咳をした。狐は驚き目をさまして草むらの中に走りこみました。猟師はたいへん腹をたて、忠七に獲物をかえせとののしりました。忠七は何度も詫びましたが、猟師は許してくれません。しかたなく、二百文あった銭を猟師に渡し、やっとのことで許してもらいわが家に帰ってきたのでした。

 その日の夕暮れ五十歳ぐらいの男が一人、二十歳ほどの女を連れて忠七の家に来て、「私どもは、奥州の者で、鎌倉に行こうとするものですが、ここで日が暮れてしまい難儀しております。どうか、一夜の宿をお借りできませんでしょうか」と涙ながらに言います。忠七・母ともに可哀想に思って「道もわからない野原であるうえ、女連れでいらっしゃる。たいそう難儀なことでしょう。どうか一夜をここで明かしてください」と言い、その夜は二人の旅人を泊めたのでした。

 さて翌朝になって、若い女が涙を流して言うには「私は、奥州の岩城郡の者ですが、不幸せのことがあったので、身のまわりの整理をして、鎌倉の伯父を尋ねようと代々仕えていた家来を供に連れてここまでやってきたのです。ところが、昨夜、私が寝入ってしまった後、あの男は旅の路銀を持って逃げってしまったようです。かえすがえすも悔しくてなりません。もう、これでは、引き返すことも、旅を続けることもできません。どうか、鎌倉に行くまでは、どんなつらいこと、苦しいことにも耐えますので、しばらくの間、ここにおかまいください」と頼むのです。
 忠七も母も気持ちが優しいので可哀想に思い、「それなら、四、五日の間、足を休めていらっしゃい。その上でどうにかして、鎌倉に送りとどけてさしあげましょう」と言ったのでした。

 こうして、忠七の家に逗留することになった若い女は、顔かたちが美しいのみならず利口者で、百姓仕事も人より早くこなし、機仕事や針仕事なども楽々とこなすのでした。すべてにおいてやさしく、忠七の母にもよく仕えたため、忠七の母もことのほか気にいり、近所の人たちもみんなその女をほめました。

 こうして、「月日に関主なし」のことわざどおり、月日はたちまちのうちに過ぎ、まだ四、五日と思っているうちに、あっという間に四、五十日も過ぎてしまいまた。そのうち近所の者たちが気づいて、忠七と母に、その女を忠七の嫁にしてはどうかと持ちかけました。二人ともそれはいいと乗り気で、女にも話したところ、お互い話がまとまったので、隣家の弥兵衛を仲人にたて、二人は夫婦となったのでした。

 それから早くも八年年月が過ぎ、二人の間に三人の子どもを設けました。姉のお鶴は七歳、その次の男の子・亀松は五歳、末の子の竹松は三歳になったのでした。そうして、秋も深まったある時、忠七の女房は、庭の方をふさぎこみながら眺めているうちに涙を流しながら、「私は心にもなく人間に馴れ親しんでしまい、昨日別れよう、今日別れようと思っているうちに、はや八年もすごしてしまった。その間に、三人の子どもまで生んでしまったけれども、私は、根本が原に年を経て住んでいた狐なのです。私が古狐であることを人にさとられてしまっては、人間界に住むことはできません。我が身が畜生であることが悲しいです。」とひとり泣きわめきました。
 「しかし悔やんだところで、どうしても自分の身の上は変えられません。三人の子どもには可哀想、いとおしい母上様、忠七殿も名残り惜しい。このまま黙って別れてしまっては、さぞ、あとになってお恨みになることでしょう。」
 しかし、「お許し下さい忠七どの」と、くりかえし、くりかえし、こみあげてくる涙で言いながら、一首の詩をしたため、一番下の子である竹松の帯にゆわえつけて、夕暮のなか泣きながら、根本が原の古塚へ帰っていったのでありました。
 
 みどり子の母はと問はば
    女化の原に泣く泣く伏すと答へよ

 さて、忠七は残された三人の子どもを立派に養育しました。三男の竹松は成人して、京都に行き立身しました。その孫が十二歳のとき、祖父の故郷を見てみたいといい、関東に向け出発しました。その途中信州の山奥で道に迷い、不思議な人物にあい、そのもとで五年の歳月を送っている間に、天文学、地理学、軍学そして文武両道に達人となりました。そして十七歳の時、常陸の国にやってきました。

 その頃、岡見の臣で柏田に住む栗林左京というものがおりました。その栗林に一人娘がいたので竹松の孫をその娘の婿にして栗林次郎と名づけました。栗林次郎は、のちに、下総守義長と号し、「関東の孔明」とたたえられるに至ったのでした。

 それから、根本が原を女化の原と言われるようになりました。