平成20年 5月 益田市

 大喜庵

雪舟が晩年を過した雪舟終焉の地、旧東光寺の跡地に建てられた大喜庵。
隣接した墓地に雪舟の墓があります。
画聖雪舟等楊は、室町中期の頃、備中に生まれ、近くの宝福寺で小僧になります。
青年期に京にのぼり、相国寺の 禅僧として修行に励み、寛正二年(1461)に大内氏に招かれて 山口を訪問、その後遣明船に便乗して中国に渡り、中国の景色や 画法について学び続けました。
雪舟は、中国に滞在中、寧波にある禅宗の古刹・天童寺から「天童山第一座」という最高位の栄誉を贈られています。
天童寺で修行した日本人は臨済宗の開祖栄西や曹洞宗の開祖道元などたくさんいましたが、「第一座」の栄誉を授かったのは雪舟唯一人だといわれています。
帰国後、戦乱を避けて九州、さらに山口に渡り、その後益田七尾 城主兼堯の招きにより宗観寺(現在の医光寺)の五代住職となりま した。兼堯の死後、周防の雲谷庵に帰り、その後再び益田を訪れ ています。
そして益田の東光寺(現在の大喜庵)に入って晩年を過 ごし、永正三年(1506)87歳の生涯を閉じたと伝えられています 。
雪舟の墓
霊巖水
悠々自適の生活を送る雪舟が愛好したものに、1mの深さに掘られた岩にしみずを湛えた霊巖水があり、硯や茶の水に使ったといわれ、現在でも愛好者が耐えません。
東光寺(現在の大喜庵)は、当時は吉田平野を通して日本海を望む様子が中国の洞庭・瀟湘の景をそのまま眼科に展開させる趣があり、雪舟が好んだそうです。

医光寺 → 萬福寺 → 大喜庵