平成23年 9月 秋田県への歴旅(秋田一日目)

車で、秋田県へ突発的に来ました。
まずは、秋田県秋田市山内にある補陀寺へ。

 補陀寺
 目的は、藤原藤房の墓を参拝するためでした。
 藤原藤房は、鎌倉幕府を討滅し天皇親政を始めた(建武の新政)後醍醐天皇の側近で、当時の政権の中枢にあった人物でしたが、後に政治への情熱を失い、役職を辞して京都の岩倉で隠遁生活を始め、その後行方不明になったといいます。

この秋田市にある補陀寺に、藤原藤房の墓があるのです。
最初、藤原藤房の墓がどこか判らなくて、補陀寺をさまよってしまいました。お寺の奥の墓地まで行っても、わかりませんでした。

やっと気が付いたのが、お寺の下のサイクリングロードから行くということでした。
車を駐車場に停め、サイクリングロードを南の方に歩いていくと、藤原藤房の墓は「左に曲がり300m」という標識がありました。

まだ、稲刈り前の田んぼが青々としていました。
しかし、300m歩いても、それらしき所はありません。だんだん不安になってきましたが、仕方が無く先へ歩いて行きました。

たぶん倍の600mぐらい歩いたと思います。
道は、森の中に入り左手に曲がる道があり、歩いていくと、藤原藤房の墓がありました。

藤原藤房の墓
杉木立のなかに、藤原藤房の墓所がありました。
京都から、秋田の地まで来て隠棲し、この地でで亡くなったのでしょうか。
補陀寺へと戻り見学しました。
立派な山門があります。
本堂の伽藍も立派なお寺です。

次は、秋田市内へと向かいました。佐竹氏関連のお寺を訪ねました。

 天徳寺
住所:秋田県秋田市泉三嶽根10-1

天徳寺は、久保田藩(秋田藩)主佐竹氏の菩提寺で、秋田県指定史跡となっています。
天徳寺は、1462年(寛正3年)、佐竹義人(義憲)が、常陸国太田(茨城県常陸太田市)に創建されました。
1590年(天正18年)、水戸霊松山(水戸市宮町、現在の水戸東照宮所在地)へ移転。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、佐竹義宣は曖昧な態度を取ったため、慶長7年(1602)、所領を21万石と大幅に減らされ秋田へ転封となりました
佐竹氏の転封に伴い、天徳寺も秋田郡楢山へ移転。
1624年(寛永元年)、火災により総門を残して全焼したため、翌年5月に現在地に移されました。
天徳寺には、立派な松の木がたくさんあります。
総門
国指定重要文化財です。
山門
1709年(宝永6年)の建立。国指定重要文化財。
本堂
国指定重要文化財。
1687年(貞享4年)の建立。入母屋造、茅葺き、間口約30mの大建築です。
茅葺き屋根が重厚で、堂々たる大伽藍です。

本堂西の墓所に佐竹家の霊屋(たまや)が建てられ、歴代久保田藩主と夫人の霊が祀られています。

残念ながら、拝観はできませんでした。残念です。

毎年お盆の数日間、虫干しを兼ねて歴代藩主の肖像画をはじめ寺宝が公開されているそうです。

お庭もきれいです。

さすが、大寺で、大名の菩提寺だなあと思いました。
親カエルの上に子カエルが載っています。ユーモラスです。

 てん信寺  
「てん」は、漢字で門構えのなかに眞と書きます。パソコンでは漢字が出てこないです。
住所:秋田県秋田市手形字蛇野89

てん信寺は、佐竹義重の墓所があります。
佐竹義重は、常陸介。佐竹義昭の嫡子で、「鬼義重」の異名で恐れられ、北条氏や伊達氏らと関東・奥羽の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築きました。
嫡子義宣が関ヶ原合戦の折に徳川家康に味方せず、これにより慶長7年(1602)、佐竹氏は秋田に転封されました。義重はこれに従い秋田に入部しましたが、慶長17年(1612)、落馬の怪我が元で死去します。当初は楢山にあった天徳寺に埋葬されましたが、翌年にてん信寺が建立され、改葬されました。
てん信寺への進入路は、道が細く、判りづらかったです。

ちょうど、本堂が改築でしょうか、工事の真っ最中でした。
佐竹義重の墓所
本堂の左後方にあります。やはり拝観はできませんでした。
特別な時期にしか拝観できないのでしょうか。


 日吉八幡神社
住所:秋田県秋田市八橋本町1-4-1
 日吉八幡神社は、社伝では、平安時代、日枝山王と石清水八幡宮を勧請し日吉山延命寺と称したとされています。
 当初は秋田郡笹岡村(現在の秋田市外旭川)に鎮座しましたが、いくつかの地を移転し、寛文2年(1662年)現在地に移りました。

日吉八幡神社 三重塔
 緑鮮やかなケヤキの大木をバックに三重塔が建っています。宝永4年(1707年)建立。
 秋田県唯一の朱塗りの三重塔です。均整がとれていて優美です。

この日の最後は、ホテルにチェックインして、歩いて久保田城跡へ行き、見学しました。

 久保田城跡
 久保田城は、久保田藩主佐竹氏の居城です矢留城、江戸時代の公式文書では「秋田城」と書かれることが多かったのですが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城であり、今日では「久保田城」の方が一般的です。

 久保田城は、雄物川の支流仁別川左岸、神明山(標高40m)に築かれた平山城で、石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁が盛られており、天守も持たず、8棟の櫓を建ていました。
 1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。
 現在、久保田城本丸のあった一帯は千秋公園となっています。
黒門跡
二の丸跡
本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まりました。
勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などが置かれました。
本丸表門(復元)
本丸跡
 本丸・二の丸跡地は、千秋公園に整備され、面積は16.29haです。名称は秋田市出身の漢学者狩野良知による命名で、秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものと伝えられています。
 桜が多く、春の桜の時期はきれいだろうと思います。
松の木も多く、芝生と、きれいに整備されています。

4月中旬〜下旬には桜まつり、5月中旬〜下旬にはつつじまつりが開催されます。
佐竹義堯公銅像
佐竹義堯(さたけ よしたか)は、久保田藩第12代(最後)の藩主です。
義堯は、文政8年(1825年)7月27日、陸奥相馬中村藩主・相馬益胤の三男として生まれます。
嘉永2年(1849年)2月26日、久保田新田藩(岩崎藩)主・佐竹義純の養子となり、安政4年(1857年)7月、久保田藩佐竹家の家督を相続し、第12代藩主となりました。

御隅櫓(復元)
1989年(平成元年)に復元されたものです。
これで、秋田県への旅一日目を終了し、ホテルへ向かいました。

平成23年 9月 秋田県への旅(秋田二日目)