平成23年10月 新潟県への旅・上越(一日目-2)

 越後安国寺跡
住所:上越市西本町ニ丁目

直峰城から上越市内に来ました。越後安国寺跡を探しました。
安国寺公園という公園がありましたが、ここが安国寺跡とも違うようです。
近くの酒屋さんの旦那さんがお店を開けようとしていたので、お聞きすると親切に教えてくれました。
公園から、200m〜300mぐらい歩いた住宅街のなかに石碑を見つけました。
 民有地に安国寺跡の石碑が立っていました。
安国寺は足利尊氏が元広の乱以来の戦死者を弔うために、各国に一寺一塔を建立させた寺です。
一塔のというのは利生塔のことです。足利義政はこの安国寺のために、朝鮮に安国寺船を遣わし大蔵経を求めたそうです。
越後安国寺は、上杉謙信が没したことによる相続争の「御館の乱」により焼失し、勝者景勝は再興を試みますが、会津移封の際廃寺となりました。

 
 五智国分寺
住所:上越市五智3-20-21
奈良時代の国分寺がどこにあったかは現在でもはっきりとは分かりません。
現在、直江津にある五智国分寺は永禄5(1562)年に上杉謙信公によって再興したと伝えられ、江戸時代には幕府から厚い保護を受けていました。
本堂は平成9(1997)年に再建されたもので、立派で大きな伽藍です。
境内には三重塔や親鸞聖人の配所であった竹之内草庵などがあります。
五智国分寺 三重塔


 赤坂山自然公園
赤坂山自然公園は、南北朝時代の正平8年(1353)11月南朝の宗良親王がここで奮戦した古戦場跡です。
所在地:三島郡出雲崎町大字乙茂562-5
 宗良親王がここで奮戦した古戦場跡です。4月下旬〜5月上旬頃に町の花であります赤坂つつじが咲きほこります。
はるかに八海山、守門岳、米山などが見渡せる景勝地です。
赤坂山公園歌碑
 赤坂山公園に建てられ、良寛の歌が刻まれています。
 かたみとて何残すらむ
    春は花なつほととぎす 秋は紅葉
宗良親王は後醍醐天皇の第5子で、新田一族を従え興国6年(1345)越後へ入国し、以後北朝軍と戦いました。
 新田義宗、義冶と共にこの赤坂城を本拠地として防戦に努めましたが、正平8年(1353)11月、北朝方の大軍が赤坂城を三方から包囲し攻め立て、衆寡敵せず支えることが出来ず、夜半に乗じて義宗、義冶と共に南へ退きました。
昔、寺があったのでしょうか、石仏や石塔があります。
こんな道で、人も歩いておらず、人里から離れた山のようです。さびしい公園でした。
近くに、ゴルフ場がありました。


 妙法寺
住所:長岡市村田1124
 妙法寺は、1306年(徳治元年)には風間信濃守信昭の庇護により、日蓮の高弟・日昭が、相模国鎌倉に妙法寺を建立しました。その後、越後に移転してきました。
駐車場脇に冠木門があり、その先に、立派な二天門があります。
参道の両側に、いくつかの塔頭寺院があり、先に杉林が見えてきます。
参道石段の両側に、「南無妙法蓮華経」の赤い幟がひるがえり、日蓮宗の寺院だなとわかります。
妙法寺 本堂
立派な本堂です。
風間信濃守信昭公廟
妙法寺を建立した、鎌倉末期から南北朝時代の南朝方武将です。報恩堂とも看板に書いてありました。
本堂の屋根、大きな伽藍です。

本堂脇から、村岡城本丸跡への道を登っていきます。
現在の妙法寺がある場所は、中世の城、村岡城があったところです。
村岡城は、南北朝時代に越後南朝方の武将として活躍した風間信濃守信昭の弟、村岡三郎の居城でした。
村岡城跡ハイキングコースを歩くこと、約5分ほどで、本丸跡に着きました。
本丸跡には、桜の木があります。
村岡三郎は、宗良親王・新田義貞に従い、笛吹峠での戦いで亡くなったと石碑に記してありました。

次に、聚感園へと向かいました。

 史跡公園 聚感園
住所:新潟県長岡市寺泊二ノ関2725
聚感園は、北越地方の豪族五十嵐氏の邸宅跡です。
五十嵐氏は、大同元年(806)先祖忠利が姓を腸り常陸守に任ぜられ、三代左衛門尉利忠の時、越後守として当国へ赴任せられたといわれます。寺泊へ移住した年代は不詳ですが、文冶三年(1187)の頃は寺泊近在六七ヶ町村を知行し、江戸時代を通じ界隈きっての権力者でした。
 しかし江戸末期に至り家運が傾き、戊辰戦争による家財没収や明治初期の火災のために没落し、広大な屋敷も一部人手に渡る窮情に至りました。
 公園前、道路際に駐車場があります。
その後心ある人々によって、この地の保存が叫ばれ、土地も買い戻されて、史跡公園として現在町が管理に当たっています。
初君旧歌碑
 永仁6年(1298)歌人藤原為兼が佐渡配流の際、一ヶ月余滞在し、遊女初君と歌を語り、今も池に名残りを留めるこの庭園を築いたといわれています。
順徳天皇御遺跡保存碑
 聚感園は、承久3年(1221)佐渡へ遷御された順徳上皇が、風待ちのためしばらくご滞留になられた際の行在所跡です。
庭園の池が残っています。
弁慶井泉
文冶3年(1187)源義経主従が都落ちして寺泊に漂着し、ここ五十嵐邸にしばらく逗留したと伝えられます。その際、弁慶が自ら井戸を掘って、義経に供したと言われています。
 聚感園の階段を登り、上がっていくと、五十嵐伊織の墓がありました。
 五十嵐伊織は、大村益次郎暗殺に加わり、斬首の刑に処されました。今は、故郷寺泊の海を見下ろす地に眠っています。
越之浦神社(こしのうらじんじゃ)
 五十嵐氏は、順徳帝崩御の悲報を聞き、追悼のため、祀殿を建て、帝の御神霊を奉祀したものです。
順徳天皇御製碑
 順徳天皇御製の三首の歌が刻まれています。
越之浦神社へ登る石段から、寺泊の海が見渡せます。
日蓮聖人の遺跡
 日蓮の像があります。日蓮が、文永8年(1271)10月、佐渡配流の折り、風待ちのため7日間滞在しました。その時に用いた硯水の井戸もあります。

 本成寺
本成寺は、1297年(永仁5)宗祖の直弟日朗上人を初祖とし、日印上人が創建しました。
約6千坪の境内には、本堂、客殿・鐘楼・宝塔・千仏堂・番神堂・山門等の七堂伽藍が壮麗を極めます。
本堂前の左右にある傘のようなものは何なのでしょう?初めて見たように思います。日蓮宗に関わるものなのでしょうか。
千仏堂
 六角形の平面をもつ六角円堂で、その形から六角堂とも呼ばれています。文化10(1813)年に再興されたものです。
二重塔(県指定文化財)
江戸時代の明和7(1770)年の建築で、屋根は銅瓦棒引きです。
三門
天明6(1786)年の竣工で、本山に相応しい大建築です。


平成23年10月 新潟県への旅・中越(二日目)