宮崎県への旅1日目

 一年半ぶりに宮崎県へときました。去年の2月に来て以来1年半年ぶりぐらいです。前回、回れなかった場所を回る旅です。
 レンタカーを借りて、宮崎県の西の秘境、西米良村へと向かいました。
 菊池記念館
 菊池家は、文亀元(1501)年ころから幕末までの米良の領主です。明治維新後に、村民が菊池氏を顕彰し贈った菊池邸は、現在、菊池氏の遺徳をしのぶ記念館となりました。
この記念館は入館無料です。
入口に、鎧がありました。
この後は、菊池記念館から崖際の階段を登った上手にある、西米良村歴史民俗博物館を見学しました。博物館は、古くから焼畑農耕の地であった西米良の農法の歴史や人々の暮らしを伝える民俗資料をはじめ、菊池一族の遺品や書簡など貴重な資料を収蔵・展示しています。

 村所(むらしょ)八幡神社
 村所八幡神社は、西米良村役場の前から続く細い坂道を登った小高い丘の上にあります。
征西将軍宮懐良親王と米良重鑑を祭っています。
例大祭で奉納される村所神楽は、約600年の伝統を持つとのことです。
西米良村を後にし、西都市へ向かいます。
一ツ瀬川です。
ダム
一ツ瀬川もここまで下流にくると緩やかな流れです。

 都於郡(とのこおり)城跡
 西米良村から西都市の都於郡城跡へ来ました。都於郡城跡は国指定史跡になっています。
都於郡城跡入口わきの空き地にコスモスが咲いていました。
都於郡城は、日向に下向した伊東本宗家の祐持による1337年(建武4年)築城といわれ、一国人領主にすぎなかった頃から伊東氏の本拠となりました。以降、南北朝時代から安土桃山時代にかけて日向一円を掌握した伊東氏の城でした。
駐車場に車を停めて歩いて行きます。
道脇の石仏です。
本丸の崖が見えてきました。巨大です。
ずっと歩いて行きます。
都於郡城跡本丸の石標があります。
本丸跡への石段を登ります。
本丸跡の郭はまっ平らで、その広大さに驚きました。
本丸跡には、ローマ遣欧使節の一人であった伊東マンショのブロンズ像が立っています。マンショは、伊東氏の一族でこの城で生まれたといわれます。
 都於郡城は、高さ100mの丘陵に築かれ、堀や池を巡らすという中世式城郭の典型的な様式です。本城は本丸、二ノ丸、三ノ丸、奥ノ城、西ノ城といった五つの曲輪から成り立っています。都於郡城は、伊東氏の本城として栄えました。
 南北朝時代以来、242年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握した伊東氏も、元亀3年(1572年)木崎原合戦で島津軍に敗れ次第に勢力が落ち、5年後の天正5年(1577年)12月(伊東三位入道義祐の時代)、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後に落ちのびて行くことになり、伊東氏の栄華は終わりをつげることになります。
 1615年(元和元年)江戸幕府の一国一城令により、都於郡城は廃城となりました。
 2000年に国の史跡に指定され、2001年より整備に伴う遺構確認調査が実施されました。
広大で、ほれぼれとしてしまいます。サッカーのグラウンドが造れそうな広さです。
本丸跡の周囲は、10m以上ある切り立った崖になっています。
この竹林の竹の高さと比較すると、かなりの高低差があることがわかります。
さらに、本丸跡をぐるっと歩いてます。
ツワブキの花が咲いていました。
この石群は、墓石が一ケ所に集められたのでしょうか。?
  本丸と二の丸の間の堀切です。大規模なものです。
次は、二の丸を見学します。
二の丸には、伊東氏時代の土塁が現存しています。
二の丸も広大なもので、これだけの城を造れる伊東氏には強大な権力があったのだなあと思いました。
さらに歩いて三の丸へ向かいます。
三の丸の崖というか法面です。
遠く西都市の市街地が見えます。
三の丸も広大です。
都於郡城跡は、よく史跡公園化されています。
三の丸の奥に展望がきく場所がありました。
西都市の街並みが見えます。
広大に城跡に池が残っています。
伊東氏歴代の墓所があると聞き、高安寺へ来ました。
高安寺の墓地へときました。葉鶏頭ほか、いろいろな、きれいな花が咲いています。

 伊東氏歴代の墓所
 伊東氏歴代の墓石が高安寺墓地の一角に集められています。あまり管理が行きとどいてないようで残念です。
次は、高鍋町へ向かい、土持墓地を見学します。

 土持墓地
 土持氏は、9世紀半ばに日向・大隅二国の大乱を平定した功績により、土持景綱が日向の地を賜り、弟秀綱を財部に、その他の一族を日向各地に居城させたといいます。以来、1457年までの600年間、日向の豪族として威勢を振るいました。
 土持氏の墓は、1926(大正15)年に郷土史家岩村真鉄氏の尽力により発見され、一ヶ所に集められたもので、高鍋では最も古い墓です。城内の墓石は31基あり、6基が土持氏関係のものだそうです。

 高鍋城跡
 高鍋城は宮崎県児湯郡高鍋町にあった平山城です。別名、舞鶴城。また旧名は「財部城といいました。江戸時代には高鍋藩の藩庁となり、現在は舞鶴公園として整備されています。 
 高鍋城は、平安時代末期に宇佐八幡宮の神官の出で、日向の豪族となった土持氏によって築かれたといわれる古城です。土持氏は室町時代までこの地に勢力を張りましたが、戦国時代になると、高鍋城は日向に勢力を伸ばしてきた伊東氏の所有するところとなりました。
 天正5年(1577年)には城は島津氏のものとなりますが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐以後、筑前秋月城主であった秋月種実が移封され、城も秋月氏の城となります。
 秋月氏は当初、櫛間城(宮崎県串間市)を居城としていましたが、慶長9年(1604年)に次代・秋月種長により財部城に居城を移し、そのまま幕末に至ります。

→ 宮崎県への旅2日目


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