宮崎県への旅2日目

早朝、まだ暗いうち、4時すぎに宮崎市内のホテルを出発。
高速道路を乗り継ぎ、鹿児島市内へ来ました。
鹿児島市の南北朝時代に関係する史跡をいくつか見学します。
 伝・秀頼の墓
所在地:谷山中央四丁目木の下
 まず、この日の最初は、伝・秀頼の墓を見学します。住宅地の中にあり、道幅が狭いので、道幅が広い場所に車を駐車し、そこから歩いて向かいました。
  豊臣秀頼の墓と伝えられる宝塔は、高さ約2mほどある堂々たるものです。
 大阪城が落城した時、島津氏が秀頼をこの谷山の地にかくまったといわれていますが、塔の下からは何も出なかったといいます。塔に刻まれた文様から、初代谷山氏の供養塔ではないかともいわれています。

 諏訪神社(南方神社)
所在地: 鹿児島市上福元町6300
通称:諏訪神社

諏訪神社が鎮座されたので、この地域は諏訪と呼ばれています。  
 祭神は建南方命と事代主命の二神で、南北朝時代征西の宮として谷山に来られた懐良親王の仰せで、谷山隆信が長野の諏訪より勧請して、この地に神社を建立して祭ったのが、始まりだと伝えられています。

 谷山五郎隆信の墓
  谷山中央自動車学校の隣接地にあります。
 高さ1・7mの比較的大きな石祠で、中には高さ1m、幅28cmの板碑があり、板碑には梵字の阿弥陀如来が刻まれています。石祠の周りには願主、建立者、作者名と建立した年月が刻まれています。
 中の板碑は南北朝期と推定されていますが、石祠の建立は江戸時代である1678年です。

 皇徳寺跡
 皇徳寺は、征西府将軍懐良親王にちなむ寺で、初め親王は御所ヶ原に皇立寺を建てました。
 1383(弘和3)年、親王が福岡県矢部で没すると、谷山忠高は親王の「遺牌」を安置しましたが、のち山田に移し、永谷山皇徳寺を建立しました。
 曹洞宗能登総持寺の末寺で、七堂の伽藍を備えた寺格の高い寺でしたが、1869(明治2)年の廃仏毀釈で廃寺となりました。今は仁王像と歴代の住職の墓や池が残っています。

 宝満寺
鹿児島県志布志市志布志町帖6537

 宝満寺は京都泉湧寺・奈良西大寺両寺の末寺で、明治2年(1869)の廃仏棄釈によって廃寺となった秘山密教院宝満寺の遺跡です。
 宝満寺は、奈良時代聖武天皇の神亀年間に(724〜728)鎮御国家のため創建されたと伝えられ、その後、正和5年(1316)院宣を受けた信仙上人英基和尚により再建された勅願寺です。
 安産祈願の護符は霊験あらたかと言われています。明治2年の廃仏棄釈の廃寺後は町内有志の仏心講の手により観音堂が建立され、宝満寺の観音信仰が現在に伝えられています。
毎年、4月29日には「お釈迦祭り」が行われ、市内外から多くの参拝客や見物人で賑わいます。
 宝満寺跡地には、現在も中国様式の畔池を廻らせた庭園、仁王像、歴代住職の墓地などが残り、往時の面影を偲ばせています。
 清らかな水が畔池を流れています。
 神仏混交の名残で、鳥居が現在でもあります。
十一面観音様でしょうか。
七五三、家内安全など祈願する方が多いようです。車がたくさん停まっていました。

 櫛間城跡
 所在地:串間市大字北方字上ノ城

 串間城跡は、1335(建武2)年に野辺忠盛が築きました。野辺氏滅亡後は島津氏のものとなり、伊東氏との攻防戦が繰り返されました。
豊臣秀吉の九州仕置により秋月種長が入り、改修を加えます。種長は1604(慶長9)年に財部(現・高鍋町)へと移り、のち廃城となりました。

 五百祀(いおし)神社
氷正8年(1511)諸県郡本城に創建と伝えます。現在、伊東家累代の霊を祭るとともに、上殿に応神天皇の御神位を戴いています。。
 伊東家代々社禄を寄付し、士民の崇敬篤い神社でした。
 社名は、工藤祐経六世の孫、伊東祐持が日向に下り、治所を都於郡に建ててから、最後の藩主であった祐相まで、五百三十五年経ていたので、五百祀、と祐相自らが名付けたといいます。
境内左手には、断崖の自然を取り込んだ桃山式庭園があります。
  伊東家墓所
この地には伊東家代々の菩提寺であった報恩寺がありました。報恩寺は飫肥初代藩主伊東祐兵(報恩公)のために建てられた臨済宗妙心寺派の寺で飫肥三大寺の一つとされていましたが明治5年廃寺となりました。
 五百祀神社社殿の裏手に、伊東家墓所があります。江戸時代の伊東家歴代の墓があります。さすが大名のお墓で立派です。

 飫肥城跡
 飫肥市内へ来て、飫肥城を見学しました。飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられています。
 戦国時代には薩摩の島津氏の城となりました。
 取り壊された大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元されました。飫肥城の玄関として勇壮を誇っています。
堀は、水が無く、空堀状態です。
飫肥小学校が城跡地内にあります。
飫肥城歴史資料館もあります。
本丸跡がある高台。
飫肥城跡内で一番高い場所です。
石段を登っていきます。
本丸跡は樹高が高い杉が、文字通り林立しています。
地面には、苔が生えていて、独特な雰囲気です。気分がいい場所です。

 豫章館(よしょうかん)
 明治2年(1869)、飫肥藩主の伊東祐帰が知事に任ぜられて、城内よりこの屋敷に移りました。その時、邸内にあった数百年を経た大楠にちなんで豫章館と名づけ、今もその名が通用しています。
 邸内は明治初年に造られた主屋で、飫肥藩の典型的な武家屋敷です。広い敷地内に母屋や御数寄屋、雑舎、蔵を配し、入り口には薬医門を構えています。
南面一帯は武学流の作庭といわれる庭園です。
広い空間に庭石や石灯籠、庭木などが巧みに配置され、愛宕山を借景した枯山水の庭園となっています。

 小村記念館
 日本の近代外交の礎を築いた明治の外交宮・小村寿太郎侯(1855〜1911)の遺徳を顕彰し、国際交流、教育文化活動及ぴ世界に飛躍する人材育成に寄与することを目的に平成5年開館しました。
小村寿太郎の生い立ちや遺品、ポーツマス会議に望んだ時の様子を再現した絵などが展示されています。
 飫肥市内を観光し終わり、これでこの日の観光は終了です。
 本日の宿泊地である延岡市を目指すことにします。飫肥から延岡は遠かったです。一日で、宮崎市から鹿児島市へ、そして宮崎県北部へ移動、その後宮崎県を縦断しました。

→ 宮崎県への旅3日目


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