平成25年12月 熊本県へ
 10年ぶりに熊本県へ来ました。
 熊本空港を初めて利用しました。以前、熊本県へ来た際は,福岡空港利用でした。


 懐良親王陵墓
 八代に懐良親王の陵墓があります。
 懐良親王は、1336年吉野を発ち九州へ向かい、12年かかって、1347年肥後菊池入りしました。それから菊池武光ら菊池一族とともに筑後攻略を開始、ついに筑後川の合戦で小弐頼尚を破って念願の大宰府に征西府を樹立し、一種の独立王国を形成しました。
 もう12月というのに、懐良親王陵墓の駐車場に、菊の花がきれいに咲いていました。九州は暖かいからでしょうか。
 御小袖塚と顕孝寺跡
 征西大将軍懐良親王が父後醍醐天皇と母君の追福のための建てた菩提寺・お墓です。
 親王が吉野をたつ際に、形見にもらった小袖をここに埋められたことから、御小袖塚と呼ばれています。  
 向かって左は天皇、右は御生母の塔で、菩提寺として顕孝寺を建てました。  
 古麓(ふるもと)城跡
 麓にある春光寺の脇からさらに奥へ続く道を進むと駐車場があります。ここに車を停め、遊歩道を歩いて行きます。   
 アスファルトの道を登ってゆくと、城の説明板があり、そこから登山道があり、杉林の中を登ってゆきます。
 駐車場から歩いて約15分ほどで、古麓城跡の本丸跡に着きます。
 名和長年は、隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられました。 一族の内河義真が代官として八代に下向し、古麓城を築きました。
本丸跡から、八代の市街地が見渡せました。
 豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封します。八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃城となりました。
 遙拝神社
 懐良親王が高田御所に滞在時、常にここより吉野を遥拝され、社殿の修復を営み、石段四八段を献納しました。これにより遥拝宮と称されるようになったそうです。  
 建て替えられたのか、現在は真新しい拝殿となっています。
 奈良木神社
 奈良木神社と奈良木観音堂は、隣接して建てられています。創建は高田御所の設置と関係が深いようです。  
 高田御所跡
 懐良親王は薩摩の谷山から正平2年(1347)12月肥後に入り、この館に滞在され、その後、親王は宇土を経て、菊池から太宰府に進まれました。   
 イチョウの木の葉が黄色に色づき、とてもきれいでした。
 宇土古城跡
 宇土古城の築城年代は詳らかではありませんが、一説には永承3年(1048年)、関白藤原道隆下向の際に築かれたといいます。南北朝時代の城主、宇土高俊は終始南朝方に呼応し、隣の郡浦荘を押領するなど、宇土半島を中心に活動しました。
 室町時代後半、宇土為光が城主となりますが、菊池能運に破れました。菊池氏家臣の城為冬が入城し、城氏が没落すると、名和顕忠が入りました。  
 宇土古城は、西岡台と称される独立丘陵に築かれ、東に主郭となる千畳敷、西に三城という連郭式の体をなしています。   
 千畳敷の周囲は堀で囲まれています。
 近年、千畳敷と呼ばれる曲輪跡から多数の掘立柱建築の痕跡と、東側に城門遺構が発掘され、一部の遺構については復元表示してあります。
 西には、三城(さんのじょう)という連郭式の郭となっています。広大なエリアです。
 宇土城跡(城山)
 宇土城(城山)は、宇土古城とは少し離れた場所にあります。それぞれ独立した城です。
 宇土城の本丸は、現在公園となっていて、そこに小西行長の銅像が立っています。   
 宇土城は、佐々成政が秀吉に追われた後、天正17年(1589)に小西行長が宇土半島に築いた城です。  
 小西行長が関ヶ原の戦いで西軍について破れると、加藤清正がこの地も支配することになり、宇土城を清正の隠居城としようとしました。  
 宇土城の遠景です。
 宇土古城跡の遠景です。
 如来禅寺(にょらいぜんじ)
 如来禅寺は、熊本県宇土市にあった曹洞宗の寺院です。本尊は釈迦如来座像。 後鳥羽天皇(順徳天皇とも)の皇子であるという寒巌義尹が、肥後へ来て最初に開創した寺院です。  
 1340年(暦応3年)、如来寺は足利直義から仏舎利二粒を奉納され、利生塔如来寺となりました。
 1504年(永正元年)、如来寺は現在地である岩古曽町上古閑へ移転しますが、やがて衰退し、現在では本堂すら現存しておらず、境内に建てられた地区の公民館内に本尊が安置されています。境内には、伝完巖義尹の墓と、義尹を肥後へ招いた素妙尼の父とされる伝古保里越前守の墓が建てられています。  

 これでこの日の観光を終了し、ホテルへ向かいました。

熊本県観光 二日目へ

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