平成26年3月15日(土) 三重県へ

久しぶりに旅行に出ました。昨年の12月以来の旅です。

車で三重県へ来ましたが、茨城から伊勢はとても遠いです。
東名自動車道の足柄辺りで、雪が降ってきました。標高が高く雪になったのです。
標高が低くなってくると、雨に変わってきました。車のタイヤはノーマルタイヤだったので、とても怖かったです。御殿場を過ぎると、雪は雨に変わってきたので、よかったです。

南伊勢に来ました。
一晩、走りづめで来たので、今日はあまり人が来ない場所を観光することにします。

 一之瀬城 (宗良親王御遺蹟)
三重県度会郡度会町脇出にある、一之瀬神社の駐車場に車を停めます。朝日がまぶしいです。
一之瀬神社は、村の鎮守の神社のような感じです。
昔、南北朝時代、ここには、一之瀬城がありました。

神社がある場所は、小高い丘です。
この城に、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が身を寄せていました。宗良親王は、北畠親房に迎えられたといいます。

後醍醐天皇の皇子というのは、たいへんです。宗良親王は、生涯、戦いのなかに身をおいた人でした。
こんな小さな丘です。

  次は、度会町から、南伊勢町五ヶ所浦を目指します。ナビで検索したら、山道を通るように指示されています。

このようなな車のすれ違いができな道が8kmぐらい続いていました。危なくて怖くて、いやになりました。 
やっと海の近くにでてきました。


 五ヶ所城(別名・愛州(あいす)城)

所在:南伊勢町五ヶ所浦 
五ヶ所城に来ました。資料館脇の階段を登り、丘に上に行きました。
この石段の角度が急で、上るのがきつかったです。
階段を登りきると、遊具がある平場にでます。
ここも郭のようです。

海が近いので、津波の一次避難場所になっていました
平場から、杉・竹からなる林に入ってゆくと、虎口があり、一段高い本丸跡の場所がありました。

 五ヶ所城は、南朝方の愛洲一族の城で、愛洲城ともいわれ、土地の方からは愛洲さんと呼ばれ、大切されてきたということです。
 愛洲氏は古くからここに城をかまえ、南北朝の頃には、北畠氏とともに、伊勢に勢力を張り、熊野水軍と結んで、田丸・一之瀬に進出し活躍しました。
 伊勢の守護職となり、神宮の後ろ盾となりました。
 一族は長くこの地を本拠地としていましたが、天正四年(1576)北畠氏(織田信雄)の軍に攻められて滅亡しました。
 現在、城址と丘の南面の、居館址や塔頭(愛洲氏墓所)が残っています。
愛洲の館
 「愛洲移香斎」生誕の地で愛洲氏にちなんだ品々の他、剣道と文化の歴史を地形模型やパネル、民具の展示などで紹介しています。
 せっかく遠くに来たので見学しました(見学料金250円)。建物は新しく、できて10年は経っていないかなと思いました。
剣豪、愛洲移香斎久忠は、愛洲一族としてこの地に生まれ、剣の奥義を悟り、愛洲影流を開きました。

知らなかったのですが、移香斎の子が、常陸国の武将・佐竹義重の剣術師範となり、常陸に来ました。

佐竹氏の秋田移封に伴い、秋田まで行ったそうです。

伊勢から常陸に来たとは不思議に思いました。


 青龍寺

愛洲氏の菩提寺であったとのことです。
とても天気がよく、青龍寺の寺地から、海が望めました。


 志摩国 安国寺

所在地:志摩市磯部町沓掛339

 禅宗永平寺派に属するお寺で、室町時代に足利尊氏が戦で死亡した人々の霊を慰めるために全国66ヵ所に1寺1塔を建てて安国寺と名付けたのが始まりと伝えられています。
 青峰山に向かう途中、沓掛の街はずれに、ひっそりとたたずんでいます。現在は無住の寺となっています。


 伊雑宮(いざわのみや)

 伊雑宮は、三重県志摩市磯部町上之郷にあり、志摩国一宮です。 
 伊雑宮は内宮(皇大神宮)別宮で、内宮背後の島路山を越えた志摩市磯部町上之郷にあります。伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮のみです。
伊雑宮の拝殿・本殿の脇に、新しい建築を造っているようです。こちらも遷宮なのでしょうか。?


 志摩国分寺

所在地:三重県志摩市阿児町国府3476 
 志摩国分寺は、奈良時代、聖武天皇の勅により、仏教拡大と一国一寺の詔に基づいて志摩国分寺として創立されました。

 本尊の薬師如来座像は県の文化財に指定されています。
現在残っている伽藍は、江戸時代に再建されたものです
 昨夜は少し仮眠しただけなので疲れてきて、今日は、早めに観光を切りあげホテルに向かいました。

三重県の旅 二日目へ