平成26年3月16日

 長野氏城跡
長野城(ながのじょう)に来ました。
長野城は、三重県に存在した中世の山城で、国指定史跡となっています。
所在地:三重県津市美里町桂畑
標高520mの山頂に位置しています。非常時の詰め城でしょう。

長野城は、工藤祐藤によって文永11年(1274年)に築城され、長野工藤氏の拠点とされました。

長野城は、工藤祐藤によって文永11年(1274年)に築城され、長野工藤氏の拠点とされました。
長野工藤氏(ながのくどうし)は、伊勢国に勢力を持った有力国人です。単に長野氏とも呼ばれます。元来は工藤氏を称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されています。

曾我兄弟に殺された工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃・奄芸二郡を給わり、その子・祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源です。

鎌倉時代から伊勢国中部の有力国人として君臨しました。
南北朝時代に入ると、南朝方国司の北畠氏が伊勢に進出してきます。
このため、長野氏は北朝方に与して伊勢の覇権を争いました。

この城が文献記録に始めて登場するのは、南北朝時代の争乱を伝える「太平記」延文5年(1360)の記事です。畠山国清らとの抗争に敗れ、京都を脱出した伊勢守護仁木義長は、この長野城で幕府追討軍の六角氏頼・土岐頼康らに対し、2年以上も籠城戦を続けました。「太平記」には、要害堅固なため、寄手がなかなか近寄れなかったと記されています。

永禄12年(1569年)に織田信長が侵攻すると、弟の織田信包を長野氏の養子として和睦しました。信包は元亀元年(1570年)に上野城を居城とし、長野城を廃しています。
津市美里町桂畑の集落を抜けると、道の端に、通行止めの標識が置いてあります。

標識が、道路の真ん中でなく、道の端にあります。車が通行できるので、行っていいのか迷いました。
行くことにして、走り抜けると、向こうから地元の方が歩いてきました。
お聞きすると、山の途中までは行けるとのこと。 
林道をしばらく走ってゆくと、右手に、長野城へ分岐する道があります。

長野城へ2.4kmの標識があり、延々と上り坂が続いています。
車で上っていくのは不安なので、ちょうど車を2〜3台停められるスペースが路肩にあるので、車を駐車して歩き始めました。
途中、滝のように水が流れている沢があります。
また、林道の途中で、アスファルト舗装から、砂利道に変わります。
登ってゆくと、崖から、少し石が崩れている箇所があります。

でこぼこした箇所もあり、四輪駆動の軽トラでも乗っていないと、きびしいと思います。林道整備のための道なのでしょう。
歩き始めて、約30分弱で、林道が行き止まり、広場のようになっており、トイレがあります。終点ですね。

長野城本丸へと登ってゆきます。
それほど広くはないですが、平場があります。
長野城本丸へと登ってゆきます。
それほど広くはないですが、平場があります。
長野城跡の付近を送電線が通っています。

本丸の向こう側に降りると、長野氏城跡の石柱と、案内板が設置されています。

本丸跡は整備されており、下草が刈り込まれている状況です。
木が伐採されており、見晴らしがよいです。
山の中で、人もいない状況で、熊が春眠からでてこないかと不安がなります。
また来た道を降りてきくると、下りは、20分ほどで降りてきました。

2日目 長野氏城居跡