平成26年5月 長崎県 二日目(1/2)

 長崎市内のホテルを5時前に出発し、一日、島原半島にあるお城巡りをしました。
 飯岳城跡
 飯岳城跡は、飯岳(362m)という山に築城された山城です。 この城は南北朝時代に林田隠岐守が築きました。

  観応3(正平7、1352)年に九州探題一色範氏は、小俣氏連を南朝方の林田隠岐守らの追討のために派遣したと言われ、閏2月16日に千々石に攻め込んだといいます。


 原城跡
 原城は、島原半島の南部に位置し、1496年(明応5年)日野江城の支城として有馬貴純によって築かれました。
  有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、1616年(元和2年)に松倉重政が日野江城に入城しますが、一国一城令の影響もあり、不便な日野江城を放棄し島原城を築城し、この際に原城も廃城となりました。

 この後、原城が全国の耳目を集めることになったのは、1637年(寛永14年)、「島原の乱」が勃発し、島原の乱最後の舞台となったことです。
 島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆が勃発しました。
 一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃されます。しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もりました。 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げました。
板倉重昌の碑
 乱の発生を知った幕府は、征討使として板倉重昌を派遣しました。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、総攻撃を行いましたがことごとく敗走しました。
 事態を重く見た幕府では、2人目の征討使として老中・松平信綱らの派遣を決定します。
 焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行い、総大将の重昌までもが討ち死にし、攻撃は失敗に終わりました。この碑は、1798年、板倉八右衛門勝彪(島原松平氏主席家老)によって建てられたものです。
原城本丸の駐車場に来ました。
ほねかみ地蔵
 原城本丸の正門石垣の上に立つお地蔵様です。明和三年(1766)、有馬願心寺の注譽住職と各村の庄屋らによって、各地より出る一揆の遺骨を集めて供養したとされます。
原城は、有明海に面して築城されています。
原城本丸
天草四郎の墓
 墓石は、西有家町にある民家の石垣の中に埋もれていたものです。
 その後ゆかりの深い原城に移し供養したと言われています。
天草四郎の像
有明海に向かい、三体の石像がありました。キリシタンの牧師のようです。
原城の本丸は広大です。
この本丸を中心に、3万7千人の一揆勢が立て籠もっていました。いくら広大な城でも、人が溢れるぐらいいたのでしょう。

 原城と同じ島原市内にある日野江城に来ました。原城跡から3、4kmぐらいの近さだったと思います。

 日野江城跡(国指定史跡)
 日野江城は、領主有馬氏の居城であり、南北朝時代に築かれたと伝えられています。
 城は、南北に細長い丘陵の先端部の標高78m付近を本丸とし、二ノ丸と三ノ丸で構成されています。

 築城は13世紀前半で、有馬氏の居城として約400年使われました。
 有馬晴信の保護の下、日野江城下は日本の布教拠点となり、初等教育機関「セミナリヨ」もできた。イエズス会の母国への報告書には「日本にこれほど壮麗な建造物があるなどとは考えてもみなかった」とあります。
  日野江城の遠望です。向こうの山が城跡です。
大手口の登り口、道路わきにある駐車場に車を停めます。
大手道の階段
 発掘作業中の階段です。階段遺構は、約100m以上に及ぶ直線的な階段で、大手と推定される所から本丸下まで一挙に駆け上がる安土城に類似した大手道の階段であったそうです。 
本丸へ登っていきます。
本丸跡

 現在は草木に覆われた小高い丘で、ひっそりとしています。

 大浦城跡

 築城年代は定かではないが南北朝時代に有馬氏によって築かれたといわれます。

 永徳3年(1383年)今川了俊と有馬氏との間で戦いがあったといわれます。 
 
大浦城は南東へ張り出した尾根の先端に築かれていた。現在主郭部は畑として開墾されており、遺構は明瞭ではありません。
集落近くに、大浦城跡の案内板がありました。
階段を登ってゆくとお社がありました。桜の木が植樹されています。

  大垣城跡
 築城年代は定かではなく、南北朝時代に築かれたのではといわれています。南北朝時代には有江(有家)氏の居城でした。
 永徳元年(1381年)、」有馬泰隆・菊池武資らの南朝方勢力が立て籠もり、九州探題今川了俊と戦ったといいます。
 
道路から農道への入口に案内板が建っています。
大垣城は南東へ伸びた丘陵の上に築かれていました。現在は畑地となっており、城だったとは認識できませんでした。

長崎県二日目 (2/2)へ