平成26年11月29日(土) 高知県へ旅

朝、8時すぎに松山空港に到着、レンタカーを借り1泊2日の四国の旅を開始しました。
一日目は、高知県への旅です。 廻った所は、ちょっとマイナーな史跡や神社等です。

お天気は曇り。松山市内は、朝方にかけ雨が降ったようです。
松山市内をぬけ、伊予市に入り、伊予ICから松山自動車道に乗りました。
三間ICで高速を降ります。

国道381号線、国道441号線と一般道を走ります。
途中、車が一台しか通れず、すれ違い困難な箇所が続く道が数kmあり、非常に怖い思いをしました。そこ以外は、センターラインがある走りやすい道なのですが。

高知県四万十市に入り、旧中村市の市街地を走り抜け、幡多(はた)郡黒潮町に来ました。
高速道路の区間が70km、一般道の区間90km、合計160kmを、3時間半で走りきりました。
お天気は、雲一つ無い晴れです。

 王無の浜
元弘2年(1332)3月、元弘の変で敗れた後醍醐天皇の皇子である尊良親王は,土佐の地に配流され、この浜に御上陸されました。

以来、尊良親王は、北条方のきびしい監視なか、「王野山」、「米原の里」にと移りかわる行在所で、2年近い配所の日々を過されました。

くろしお鉄道「王迎え駅」進入路交差点の国道脇に、「王無の浜」の説明板と石碑が立っています。
 有井庄司の墓
土佐に流された尊良親王に味方し、援助した有井庄司の墓があります。
有井庄司の墓は、黒潮町有井川の八幡神社境内にあります。
北条氏が滅亡し、尊良親王が都へ帰還するにあたり、有井庄司を伴って帰ることを切に望まれました。
 しかし、有井庄司は老齢のためお断りしました。
 やがて、有井庄司の病死の訃が宮のお耳に達すると、宮はいたく悲しみ、供養の塔を送り、庄司の墓に手向けられたといいます。
有井庄司の娘、千代之墓の碑も境内にありました。

 米原行在所跡
有井川から8kmほど北に入った米原地域に向かいます。

途中、山ばかりで、人家が全く無い道を通ります。
右手に石碑と説明板らしきものが見えます。

「尊良親王御宮跡」の標柱です。
尊良親王は土佐に着き、奥湊川の領主太平弾正一族、有井庄司らに警護され太平弾正の館にお着きになりました。

その後、尊良親王は、ここ米原行在所に移られました。
 大平弾正の墓
 海から4、5km上流の大方町奥湊川に、土佐に流された尊良親王に味方し、援助した大平弾正の墓があります。
 奥湊川の領主大平弾正は、尊良親王を率先して自分の館にお迎えしました。
その後、尊良親王をの身を案じ、仏が森中腹の行在所、さらに米原の里にお遷しました。
 大平弾正の墓です。
 入野松原
 入野松原は、黒潮町にある延長4kmの白浜の背後の松原(クロマツ林)です。長宗我部時代の防風の植林に始まるといいます。
 千代の碑

千代の碑は、海から約8kmほと遡った黒潮町蜷川(みながわ)にあります。

尊良親王の米原宮へ食事を届ける役務を 負った千代という少女は、毎日往復六里を歩いて食事を運びました。
千代は献身的に努め、毎日遅れぬように懐へ鶏を抱き、 その鶏が鳴く前に食事を届けていたと云われています。

しかしある時、食事を届ける前に鶏が鳴いてしまい、 自責の念に駆られた千代は、入水自殺をしてしまったといいます。

二日目・愛媛県松山市及び周辺の歴旅