平成26年11月 愛媛県松山市の旅

午前5時すぎ、真っ暗なうちに、高知県四万十市(旧中村市)に宿泊していたホテルを出発し、国道441号、国道381号と、夜が明けきらないうちに走りきりました。
途中、車一台しか通れない区間を走りました。

鬼北町にきました。
嵐のような靄がさかんに流れています。
大洲市の肱川嵐もこんなものなのでしょうか。
  新田神社 伊予市大平1015
 伊予市にある新田神社に来ました。
 新田神社は、新田義治を祭神としています。
 新田義治は土居・得能氏を頼って落ちて来たといいます。しかし、伊予国に来て目的を果たすことが出来ず痢病に罹り没しました。
 神社には、義治自筆と云われる猫の絵があるといいます。
皇帝ダリアの花が咲いていました。
初冬に花が咲くダリアとは不思議です。

 松前城
 松前城は、築城者・築城年代は定かではりませんが、南北朝時代には既に南朝方の会田定遠が居城していました。
その後、河野氏の支配するところとなり、河野氏の家臣栗上通宗・宗閑が居城しました。
 文禄4年、加藤嘉明が淡路から松前6万石へと移封となり、6年間で松前城の大修築を行いました。
 慶長5年、関ヶ原の役で東軍に与した嘉明は、戦功により20万石に加増され、慶長7年に松山城を築城して移り、松前城は廃城となりました。    
 松前城跡は、現在、住宅地・工場となっており、松前城跡を示す石碑が立っている公園があるだけです。

 星ノ岡城跡
星ノ岡城は、南北朝時代に築かれました。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受け、得能通綱、土居通増、忽那義範、大祝安親などが宮方として挙兵しました。
長門探題北条時直は討伐軍を率いて、水居津から上陸して、この星ノ岡城を占拠しました。宮方は得能通綱、土居通増らの軍勢が集結して北条軍を急襲、大敗を喫した時直はその身一つで逃げ去ったといいます。
星ノ岡城は雲門寺の北にあり、星岡山に築かれていました。
山頂には、星岡薬師堂の建っています。
その左手奥、標高75mの山頂部には「星岡表忠之碑」が建っています。

 浮島神社
浮島神社は、浮穴郡の一宮です。可美葦牙彦舅尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祭神としています。
本殿の背後に磐座と伝えられる三つの自然石があり、中央に可美葦牙彦舅尊、左右に伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀ってきたといいます。
戦国時代、豊後の大友義鎮が伊予に侵入した際、大三島神・八幡神以外は破却するという風聞があったため、大三島明神に改めたとされます。
天正14年(1587)長宗我部元親の伊予侵攻による兵火のため、社殿や旧記を焼失。慶長年間(1596〜1615)松山城主となった加藤嘉明により再建されました。立派な拝殿です。
浮島神社の隣の田のなかに、長慶天皇陵(浮島陵)があります。
 白鷺湖
昭和48年3月に建設された石手川ダムのダム湖である、白鷺湖です。

下流にある道後温泉のシンボル「白鷺(しらさぎ)」にちなんで、「白鷺湖」といわれています。

 永徳山 円福寺
円福寺は、貞観二年(860)、天台座主安慧の開基です。
南北朝時代、新田義貞の子義宗ゆかりの寺で、義宗が残したと伝えられる武具が残っています。
寺を含む湯山一帯が南朝に荷担した得能氏の所領であったところから、南朝滅後、寺の衰微もさけがたく、本家(河野一族)の所領となってのち、天文17(1548)年、河野通直が新田義宗(上新田神社)、脇屋義助の子義治(下新田神社)の祠を建て再建しました。
 明治時代には、1895年、夏目漱石が訪れ、「山寺に太刀をいただく時雨哉」と詠み残している。
 本尊は、聖観世音菩薩。現在は、伊予十三仏第四番霊場(普賢菩薩、辰巳年生まれの寺)となっています。
伊予の田舎、のんびりとしたところです。

 両新田神社
両新田神社の祭神は、新田義宗、脇屋義治です。南北朝の戦いに敗れた新田義宗(義貞の息子)とその一族が得能家を頼って落ち延びたと言われています。新田義宗は、南北朝の争いで敗れた南朝側の武将で、鎌倉幕府を倒す立役者となりながら、後に足利尊氏に敗れた新田義貞の息子に当たります。
新田義宗は、南朝の再興を願っていましたが、上野国で戦に敗れその夢が果たせないまま、出羽国の羽黒山という所に隠れ住んでいました。「このままでは、自殺するしかない」と決心しているところへ、明徳3年(1392)に、伊予の得能家から招かれ、従兄弟の脇屋義治らと共に伊予の地に落ち延びることになりました。
一族三十数人は、商人や山伏などに姿を変え、敵の目をくらましながら、やっとの思いでこの地にたどり着きました。

正面に見える木が、お杖椿です。
お杖椿
お杖椿は、義宗が遠路の旅で疲れ果てたとき、家来の者が道のわきに入って、木を切り杖を作って戻ってきた。義宗はこの杖にすがって歩き、ようやくこの地までたどりついて、杖を捨てました。ところが、これから根が出て、立派に育った椿ということで、「お杖椿」の名がつけられました。
4月下旬から5月上旬にかけて、盛んに花を咲かすといいます。

私が訪れた時は11月半ばで、椿の花は咲いていませんでした。
腰掛石
 新田義宗が腰掛けたと言い伝えられる石です。
両新田神社

 善応寺  松山市善応寺
善応寺は、伊予の豪族河野氏の氏寺といえるものです。
 善応寺は伊予の豪族河野通盛が建武2年(1335年)年に本拠を道後の湯築城に移すとき、自分が住んでいた土居館を京都の東福寺を模して創建し善応寺と称しました。
寺伝によると当時は七堂伽藍が聳えたち、13の塔頭があったといいます。
しかし、天正15(1585)年、河野氏の没落と共に、戦火により焼失し荒廃しました。現在の寺は、江戸中期、徳川吉宗の厚遇により、明智庵のところに建てたものです。
現在でも、大禅刹の雰囲気を持つ大寺です。
善応寺に来る途中から、雨が本降りとなってきました。

これで二日間の観光を終了し、松山空港へ向かいました。

松山空港で、飛行機の出発時間が50分遅れましたが、順調に成田空港に着きました。飛行機の旅は、車のロングドライブの旅より、疲労がそれほど蓄積しなくていいです。

一日目・高知県黒潮町への旅