平成27年5月 福岡県への旅一日目

 5月末、福岡県へ来ました。福岡空港に着き、レンタカーを借り、福岡県の東部へ来ました。お天気は、生憎、雨です。

 宇都宮氏館
所在地:福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷

 宇都宮氏はもともと常陸国、下野国を勢力下においた八田氏の系譜です。
 豊前宇都宮氏の祖となった信房は京都朝廷に仕え中原氏を名乗っていました。
 文治元年(1185)平家が壇ノ浦で滅亡すると、源頼朝は反旗を翻した義経一派を攻略するため、宇都宮信房を九州に派遣しました。信房はこれを成功させ、元来平氏の地盤であった九州統一の突破口を開きました。
 この功績により、信房は頼朝から田川郡伊方荘の地頭職、豊前国衙の田所職、税所職などの領地を得ました。
 信房は豊前に入国すると、豊前国府に近い木井馬場(みやこ町)を本拠としました。
 宇都宮氏館は松丸にある5m程の台地の上に築かれています。
 現在、内部の主要部は果樹園で、立ち入り禁止の看板が建っており、見学はできませんでした。

 豊前国分寺
所在地:福岡県京都郡みやこ町国分280 
 奈良時代、聖武天皇の勅願により全国に建立された国分寺の一つです。
 創建当時、この地方は九州東北部の文化の中心地だったと考えられています。
 豊前国分寺のほとんどの建物は戦国時代末期の戦火で焼失しましたが、江戸時代小倉藩の支援もあり再建が進みました。
 豊前国分寺三重塔は明治29年 豊前国分寺のシンボルとして建立されました。
 三重塔としては全国でも有数の規模、高さ23.5mを誇ります。
 昭和32年に福岡県の有形文化財(建造物)に指定されました。
豊前国分寺跡です。

 尾倉山城跡
所在地:福岡県京都郡みやこ町勝山岩熊字尾倉山

 築城年代は定かではありませんが、貞治5年(1366年)北朝方の門司親長が、南朝方の菊池武光の軍勢が籠もる尾倉山城跡を攻めています。
 尾倉山城は諫山小学校の東に聳える比高20m程の独立丘陵に築かれています。
 東側からの道から登りましたが、途中から、竹林となり、竹の葉っぱがたくさん地面に積もっていて、非常に歩きにくかった。
 雨も降っているので、すべてを見て回ることを、途中で断念して、撤退しました。

 松山城跡
所在地:福岡県京都郡苅田町大字松山 
 松山城は北九州空港に向かう道路脇に聳える標高127.9mの山頂に築かれています。
 天平12年(740年)、太宰少弐藤原広嗣の乱の時に築かれたと云われます。
  戦国時代には大友氏と大内、毛利氏によって激しく争われました。
 天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐では、黒田孝高が宇留津城攻めの前に陣を構え、黒田氏が中津城に入封すると城代が置かれました。
 現在は周囲が埋め立てられていますが、往時は海に半島状に突き出す形になっていたといわれています。

登山道入口に簡易トイレを完備した駐車場が用意されていました。
駐車場から、整備された登山道を登っていきます。

雨が降っているので、暑くはないです。
時々、休みながら歩いて、本丸跡へと着きました。

戦国時代当時のものかと思われる、石段がありました。
松山城は山頂に一段小高く主郭を置き、周囲を取り囲むように二ノ段があります。曲輪を上り下りするための石段が良く残されています。
本丸跡です。
本丸跡からの眺めは、残念ながら、雨のため、展望はききませんでした。もし、晴れていたら、眺めはよかったでしょう。
 この写真は、翌日、晴れていたので、松山城跡を撮影したものです。
 貫城
福岡県北九州市小倉南区大字貫字別府

 貫城は、築城年代は定かではありませんが、新田上野介義基によって築かれたと云われます。 義基は新田義貞の父朝氏の弟覚義の子とされ、興国元年懐良親王に従って大宰府に下向したといいます。義基は馬ヶ岳城や貫城など諸城を築き一族を城主としました。
その後城主となった貫宗景は懐良親王と義基の妹との間に産まれた子とされ、故あって義基の子なり、貫氏を名乗ったといいます。
貫城跡について、どうも間違った所を訪問したようでした。

貫城跡は、田んぼを挟んで、対面の反対側、写真を撮っていた自分側の丘陵が城跡だったことが帰ってきてから判りました。
平成27年5月 福岡県の旅二日目へ