平成27年6月 熊本県への観光二日目

 熊本県の観光二日目です。レンタカーで出発し、玉名市方面へに向かいました。
 この日のお天気は晴天でした。

  石坂城
 石坂城は国道443号線と県道194号線の北西側の丘陵にあり、南へ伸びた丘陵の南端頂部に築かれています。
案内看板も無く、どこから城跡なのか、よくわかりませんでした。

  熊野宮
所在地:玉名郡和水町江田 
 熊野宮は、1349年、菊池武光が勧請しました。
 1349年は、菊池武光が懐良親王を迎えて1年目であり、足利直冬が九州入りする年です。
1349年に造られた宝塔があり、熊本県重要文化財に指定されています。
 屋根と賽銭箱には並び鷹の羽紋がみえます。

  玉名大神宮
所在地:熊本県玉名市玉名4600
景行天皇が熊襲(南九州の民)征伐の途中、玉杵名邑(たまなきむら)、に来た時、土蜘蛛津頬(豪族の長)が抵抗しました。
景行天皇は天照大神を祀って拝み、お祈りをすると、玉のような小石が落下して土蜘蛛津頬を退治しました。この小石を神の霊として尊び、祀りました。このことから大神宮を遥拝宮(ようはいぐう)ともいいます。
祭神は、天照大神、景行天皇、阿蘇の4神、玉依姫(たまよりひめ)とその両親である菊池将監則隆夫妻です。

  永安寺東古墳・永安寺西古墳
菊池川右岸の沖積地をのぞむ丘陵裾部に営まれた装飾古墳で、永安寺と呼ばれる寺院跡をはさんで東西に約40メートル離れて並列して所在しています。
 丘陵裾斜面に営まれた比較的小規模な円墳とみられており、巨大な阿蘇泥溶岩の加工石材を組合わせて石室を築いています。
 石室には、円文、舟や馬かと見られる文様等が、彩色が鮮やかに描かれています。

  廣福禅寺
所在地:熊本県玉名市石貫1379
廣福寺(こうふくじ)は、熊本県玉名市石貫にある曹洞宗の寺院です。肥後西国観音霊場第24番札所ともなっています。

創建の年代及び由来には諸説ある。
寺伝では、正平12年(1357年)、菊池武澄が、肥後国菊池郡の鳳儀山聖護寺より大智禅師を開山に迎え開基したといいます。
寺は菊池氏代々の菩提所として栄えましたが、菊池氏の衰退とともに寺勢も衰えます。 その後、肥後に入国した加藤清正が寺領を寄進し、寺は再興されしまた。

 

  繁根木(はねぎ)八幡宮
所在地:玉名市繁根木
 繁根木八幡宮は、応和元年(961)紀隆村が大野別府の総鎮守として京都の岩清水八幡宮から勧請したと伝えられています。
 その後、戦国時代が続き、菊池氏が没落し、繁根木八幡宮も衰退しますが、加藤清正が入国し城北の有力都市の神社として再建に努めました。神社の神殿や周りの石垣などはその時の建設だと伝えられています。細川藩になっても尊崇されました。
祭神は、応神天皇、仲哀天皇、 神功皇后です。
二層造の楼門は江戸時代初期に建造されたもので、高さが12mもあり桃山様式の華麗な彫刻が見事です。
 西南戦争時には、官軍の本営が置かれ、薩軍と対戦し多くの兵士があふれました。石垣には今も弾痕が残っているといわれています。

  高瀬天満宮
場所:玉名市高瀬
 高瀬天満宮は、建物に囲まれていて日が当たりにくい閉所にあります。
 1074年菊池則隆が建立とあり、河崎天満宮と同じ年となっています。

  高瀬船着場跡
 玉名市のもともとの中心街は菊池川沿いにあり、高瀬とよばれ、古くから栄えていました。
 高瀬船着場跡は、菊池川河口にあり、有明海でただ一つの良港として、古くから中国など外国の船が出入りしていました。また、外国で修行する僧侶の出入国や、軍港としても利用され、大いに栄えた港でした。
 高瀬船着場は、加藤清正や細川氏によって拡張整備され、明治時代まで長く栄えました。
 永徳寺跡
 1357年、第15代菊池武光が石屏子介を招いて開いたといいます。高瀬は菊池氏の貿易拠点として栄え、一族の高瀬氏が高瀬城に居城して支配しました。
 貿易による利益は莫大ななものだったようです。

  願行寺
  高瀬五山の一つに数えられる蒼園山願行寺(時宗)は、貞和5年(1349年)に遊行五世安国上人が開基となり建立されました。また大同3年(808年)に紀貫之が建立したという寺伝もあります。

 菊池氏との密接な関係があり、同寺の近くには、かつて高瀬城がありました。菊池武尚(武時の子)が築城したといわれ、11代武基まで高瀬氏の居城となりました。

  河崎神社
場所:玉名市河崎
 河崎神社は、高瀬七天神の一つです。
1074年、菊池則隆が建立したとされています。

  梅林天満宮
所在地:熊本県玉名市津留499
梅林天満宮は、熊本県玉名市にある神社で、旧社格は村社です。
承平6年(936年)太宰府天満宮から勧請されたと伝えます。菊池則隆が建立したともいわれています。
立派な楼門です。
江戸時代後期の建築。

  伊倉南八幡宮、伊倉北八幡宮
 道路を挟んで、南北に神社が仲良く並んでいるのが珍しいです。
 伊倉南八幡宮
所在地:熊本県玉名市伊倉北方3015
 玉名郡司日置(へき)氏の荘園を宇佐八幡宮が直接経営したことに始まり、中世に行われた下地中分線を境に南方、北方に別れたといいます。
 伊倉北八幡宮
所在地:熊本県玉名市宮原701
伊倉南八幡宮の大楠
樹齢400年以上といわれ、高さ36mの大木です。玉名市指定天然記念物となっています。見事な楠木です。

  宇都宮神社
所在地:玉名郡玉東町木葉1164
神社は木葉小学校の北約100m、山を背にして鎮座しています。
言い伝えによると養老7年(723)、藤原氏の氏神であり、祖神である大和国春日神社の祭神天津児屋根命と武甕槌命とを勧請して木葉に春日大明神宮が創建されたといわれています。
 御祭神:天津児屋根命、武甕槌命、宇都宮隆房公、宇都宮朝房公
 源頼朝は、平家方の勢力を九州から一掃して、元暦元年(1184)、御家人等(頼朝の武将)に分け治めさせました。
 頼朝の命により、藤原氏の血統をひく宇都宮信房は下野国から九州に下り、豊前国(福岡県東部)を治めることとなりました。この頃から木葉も宇都宮氏の支配するところとなり、春日大明神宮は宇都宮一族から氏神、祖神として崇められました。

  木葉城跡
  木葉城は、肥後宇都宮氏の居城跡です。下野宇都宮氏の一族で、豊前宇都宮(城井)氏の分かれです。
 南北朝時に栄えたのが肥後宇都宮氏です。菊池氏、阿蘇氏とともに肥後における懐良親王方の有力武将として活躍しますが、正平14年(1459年)、足利直冬、託摩宗直、川尻幸俊の連合軍に攻められて落城、肥後宇都宮氏の当主、三河守隆房は城を枕に討死しました。享年31歳だったと伝えられます。
 
以後、直冬方が衰退すると北朝の九州探題一色範氏によって、北朝方だった豊前宇都宮氏がこのあたりの地頭に任ぜられて入城したそうですが、間もなく菊池武光により奪取されます。
 武光は重臣の小森田氏を入れ、戦国時代まで続きますが、加藤清正に滅ぼされました。
 木葉城跡は、西南戦争の地として有名で、現在は城趾に有栖川宮の石碑が立っています。
城跡から、玉東町の街並みがよく見えます。

  田原坂古戦場
 田原坂は、熊本県熊本市北区植木町豊岡一帯の地名です。西南戦争の古戦場であり、国の史跡に指定されている。
 明治10年(1877)、維新政府に不満を持つ士族は西郷隆盛を擁して反乱に踏み切り、熊本城を囲みました。
 政府軍は、熊本城に篭城した熊本鎮台を救援するために、小倉を基地に南下したのですが、これを反乱軍(薩軍)が迎撃したのが、田原坂の戦いです。

 
3月4日〜20日まで、約2週間に渡って繰り広げられ、「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」と謡われた西南戦争最大の激戦でした。述べ10万人の将兵が激突したとされ、日本最大の内戦の舞台となっています。
現在は、ツツジや桜の名所として知られる美しい公園となっています。
 これで二日間の観光を終了し、熊本空港へ向かい、帰路に着きました。

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