平成27年10月18日(日) 熊本県への旅 二日目 午前

 前日は、大津町のホテル宿泊していました。借りていた白いレンタカーのボディを見ると、うっすらと火山灰のようなものが積もっていました。阿蘇山の火山灰かと思います。
 ホテルを出発し、熊本市内へ来ました。

 春日神社
 春日神社は、延久5(1073)年、菊池氏初代藤原則隆が奈良の春日神社を勧請し創建したと伝えられいます。
祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売命、大山昨命です。

神社の周りは、住宅街とマンションなどです。

 春日寺
所在地:熊本県熊本市西区春日3丁目2-4
 春日寺は、熊本県熊本市西区春日に所在する臨済宗大徳寺派の寺院です。
 春日寺は、延久3年(1071年)菊池氏初代菊池則隆が春日大明神を勧請し、その神護寺として建立したのが春日寺であると伝わっています。
寛永9年(1632年)に肥後の国主となった細川忠利は、岫雲院の名を与え、以後は岫雲院が正式の名称となりました。
 細川忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘に付しました。
 そのとき解き放たれた愛養の二羽の鷹のうち、「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明石」は傍の井戸の中に飛び込んで、ともに殉死したという哀れな物語が伝えられています。


 初めて熊本城を見学にきました。車は、二の丸駐車場に停めました。
 熊本城
 熊本城は、文明年間(1469年〜1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城を築いたのが始まりとされます。
 その後、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築きました。日本三名城の一つとされ、御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられました。
 加藤氏が改易され、細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、細川家11代の居城として続いた後、明治になり廃城となりました。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していました。
 熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失しました。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残っています。
午前9時半ぐらいだったので、観光客は未だ少なかったです。
長塀と石垣、お堀が広大で、きれいです。
西大手門
 熊本城の中で最も格式の高い門とされます。寛永9年(1632年)に入国した細川忠利は、この門の前で衣冠束帯のまま駕籠を降り、敷居を押しいただくようにして「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝えられます。
天守閣
 熊本城は、名将加藤清正が幾多の実戦の経験を生かし、慶長6年(1601年)から7年の歳月と、心血を注いで築城したものです。
 最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなります。
 大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗り、どっしりした印象を与えます。
宇土櫓
本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇ります。櫓といいながら、天守閣ともいえるような建物です。
 宇土櫓の名前の由来は、宇土の小西行長が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて京町に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかといわれています。
 宇土櫓の内部は一般公開されていました。
 宇土櫓から見た、熊本城の天守閣です。
首掛け石
 熊本城築城の折、横手の五郎という怪力無双の若者が花岡山から首にかけて運んできた石と伝えられ、重さは1800kgあります。
天守閣
 現在の天守閣は昭和35年(1960年)に、市民の浄財などによる総工費1億8,000万円をかけて、鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。
熊本城から見た宇土櫓
熊本城
お天気がよくて、眺めがいいです。
熊本市は、都会です。市街地がずっと広がっています。
本丸御殿
復元された本丸御殿の昭君の間です。
障壁画が素晴らしい。
北十八間櫓
国指定重要文化財です。
ちょうど公開されていました。
不開門
国指定重要文化財です。
門は開いていました。
二様の石垣
向かって右の石垣は、築城当初の加藤時代のもの。左側、細川時代になって増築されたものです。 隅部の反りや積み方が違います。
飯田丸五階櫓
たくさんの石がきれいに積まれ、石の芸術です。
飯田丸五階櫓
飯田丸の名称は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛が管理していたことから、こう呼ばれるようになりました。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所までも設けられています。 平成17年に復元されました。
奉行丸
細川氏入国後、ここに奉行所が置かれたことから、奉行丸と呼ばれました。

二日目の午後へ

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