平成28年12月 愛媛県一日目
 一年ぶりに愛媛県へ旅行に来ました。空港でレンタカーを借り、観光を開始します。

 まず、最初に、松山城へ訪れました。

 松山城
 所在地:愛媛県松山市丸之内1

 松山城は、松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城です。
二之丸史跡庭園
 まず、二の丸史跡庭園を見学しました。
 本丸を防衛する施設として、また藩主の生活のための「二之丸邸」が建てられていた場所。現在は史跡庭園となっています。
 各地のカンキツ類や草花で昔の部屋の間取りを表現しています。
庭園があります。
二の丸史跡庭園を後にし、松山城本丸を目指し、登っていきます。
昭和47年に再建された太鼓門です。
標高が高くなってきて、市街地がよく望めます。
本丸にやってきました。
松山城は、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結し連立式天守となっています。
三の門南櫓(国重要文化財)
 安政元(1854)年の再建です。
天守(大天守)
 創建当時には、五重天守が建てられていたとされており、1642年に三重に改修しています。
 その三重天守も、1784年に落雷で本壇の主要建物とともに焼失し、現存する大天守は、黒船来航の前年である1852年に、石垣普請とともに再建工事が完了し、安政元年(1854年)落成した3代目の天守です。
 連立式三重3階地下1階構造の層塔型天守です。大天守のは高さ20mの高さがあります。

 天守の中に入り、見学します。見学者は多かったです。
素晴らしくきれいな活花が飾ってあります。
芸術的な活花です。
天守からの眺めは素晴らしいです。
松山市街地を一望できます。

 中村三十三墓 
 所在地:松山市立岩中村
 河野氏一族、得能通俊の子孫重見通勝は、征西将軍・懐良親王に従い、九州・伊予各地に歴戦、功あって、正三位を贈られました。
 重見家は、通勝が茶臼山日高城を領してから五代の重見通晴に至るまで続きました。
 この通晴は天正13年(1585年)、中国の小早川隆景と戦い、8月7日、日高城は落城し、一族の多くは自害しました。
 中村三十三墓は、重見家一族の墓とされています。
 途中、ここまで道が狭い所がありました。空き地に車を停車し、集落の中の道を登っていきます。
集落をすぎ、山の中に入っていき、平地の奥に、中村三十三墓があります。
中村三十三墓
 墓の墓石の様式は一定でなく、歴代の武将一族と関連があるものと考えられています。
 現在の墓は、日高城の北東部丘陵地帯に散在していたものを、明治時代初期に集められたもので、墓石の下には骨壷が埋められています。
 たくさんの五輪塔や宝篋印塔が立ち並んでいました。

 国津比古命神社
 所在地:愛媛県松山市八反地107
 祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊です。
 宇麻志麻治命、物部阿佐利命、誉田別命が配祀されています。
 火事祭りとも呼ばれる秋祭りは、石段の上から神輿を落とす「あばれ神輿」で有名です。
 社殿は古墳を一部削平して建っています。
 墳丘全長75m、後円部径42m、前方部幅39mの前方後円墳です。

 大通寺
 所在地:松山市(旧北条市)難波
 曹洞宗安楽山大通寺は、村上水軍のひとつ来島村上家の伊予時代の菩提寺です。
来島水軍の墓所
 一番左に建つ宝篋印塔が来島通総の墓(供養塔)です。
来島通総の墓
 来島通総は信長・秀吉に接近し河野氏から離反、秀吉の四国征伐では先鋒を務め、来島村上家を近世大名に導いた人物です。
 通総の時代までは村上姓でしたが秀吉に「来島」と呼ばれていたために来島と姓を改めています。秀吉の朝鮮出兵、慶長の役で戦死しました。
得居通之の墓
 通之は、来島通総の兄です。通之の墓は弟や家臣たちの墓よりも高い場所に位置しています。通之は通康の嫡男ですが得居家の跡を継ぐことになりました。秀吉の朝鮮出兵、文禄の役で、弟に先立ち戦死しています。

 太山寺(たいさんじ)
 所在地:愛媛県松山市太山寺町1730

 太山寺は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院です。
 瀧雲山、護持院と号しています。
 本尊は十一面観世音菩薩,四国八十八箇所霊場の第五十二番札所です。

 太山寺の草創については、「一夜建立の御堂」伝説が伝えられています。
飛鳥時代の用明2年(586年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で大嵐に遭遇しました。
 長者が信仰する観音に念じると、山頂から光が差し嵐が静まり無事着岸しました。
その光の差した頂上に行ってみると一寸八分の十一面観音を祀った小さな草堂(現在の奥の院)がありました。
 長者は感謝し、一宇建立の大願を起します。早速、豊後に引き返し工匠を集め木組みを整え、一日で高浜の港に着き夜を徹して、一夜にして建立したということです。
右側が二王門
 二王門は、1305年再建で、国重要文化財に指定されています。
本堂(国宝)
 現存の本堂は、三代目で嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えました。
 桁行7間 (16.38m)、梁間9間 (20.91m)、屋根は入母屋造本瓦葺きで、木造建築としては愛媛県下最大です。
 この日は、たまたまなのか、八十八箇所霊場の札所なの、参拝客は少なかったです。

 これで、この日の観光は終了し、宿泊する松山市内のホテルへ向かいました。
 明日に備えて、早めに体を休めることとしました。
 愛媛県の旅 二日目