平成19年11月 紀州 広川町

 広川町役場前  濱口梧陵の銅像
和歌山県有田郡の広川町役場
広川町役場の前に、濱口梧陵の銅像があります。
稲むらの火を持ち、走っている姿です。
浜口吾陵は、紀州・広村(現在の和歌山県広川町)に住んでいる代々の庄屋であり実業家でした。

たまたま、広村の家にいる時、1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたり南海大地震が発生しました。

梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予見しました。そういう現象が起きた時には、大津波が来るということが、浜口家に代々伝えられていたのです。

村民を避難させるため、吾陵は自分で近所の家を走り回り、津波が来るぞ、高台の神社に逃げろと叫んで廻りました。それでも、村人全員に知らせることができません。

吾陵は、高台の自分の田んぼに積んである稲束(稲むら)に、火を付けて急を知らせました。火事だと思った村人が、半鐘を鳴らし、続々と火事を消すために村人が集まってきました。

吾陵は、最後まで村人を避難させるため、海水が腰のあたりまでくるまで避難誘導をしました。

まもなく、吾陵が予見したとおり、海から大津波が陸に向かって押し寄せて、村を飲み込んでゆきました。高台の神社に避難していた人々はみんな助かりました。
吾陵の行動が多くの村人の命を救ったのです。

自分の危険や財産を顧みないこの行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏陀の国の落穂拾い」という短編集の中で、「A Living God(生ける神)」として梧陵を紹介しています。

また、この実話は、「稲むらの火」として、小学国語読本となりました 。
 広村堤防

江戸時代の1854年(安政元年)、浜口吾陵が住んでいた紀州・広村は、南海大地震による津波で、壊滅的な被害を受け、疲弊しました。

家や漁に使う舟が壊され、生活の基盤を失い、村人は非常に困窮しました。前途を悲観して、村から出てゆく人が相次ぎました。
広村の堤防の中央付近には感恩碑が立てられています。昭和8年5月、今までの津波で亡くなった人々の霊を鎮め、今後津波の災害を防ぐために作られた堤防へ感謝のために、当時の広村村民が建立しました。
吾陵は、これではいけないと、自分の資財をなげうって、将来の津波被害を防止するため、村人を村に繋ぎ止めるた、広村の海際に防波堤の建設を考えつきました。
まず、吾陵は、和歌山藩に計画書を提出し、海際へ築堤の許可を得ました。自分のお金で造るのに、藩の許可を得なければならなかったのです。
海際に防波堤の建設を開始し、働いた村人には、毎日、その働きに応じて、自分の資産から、賃金を払いました。防波堤工事は、津波により失職した人々に仕事を与えることができ、大いに役立ちました。
1855年(安政2年)から4年間、多額の資金を費やし、大防波堤が完成しました。

広村には活気が蘇ってきました。全長600m、高さ5m、海側に松、陸側にハゼの木が植えられました。
後にまた、南海地震が発生し津波が押寄せた時、この大防波堤が機能し、広村の被害は最小限に食い止められました。この防波堤は、浜口吾陵と村人たちの偉業を讃え、今では国指定史跡に指定されています。
浜口吾陵って、私は知らなかったのですが、堂々日本史で見て、こんな人がいたのかと驚きました。
自分の生まれ育った広村が、災害により疲弊し、滅んてゆくのが我慢できなかったのでしょう。吾陵は、慈悲深く、社会奉仕ができる人だったのですね。
 耐久舎
濱口梧陵は、嘉永5年(1852年)私財を投じ剣道と漢学を教える稽古場(私塾)「耐久舎」を創設しました。

安政の南海地震に襲われる2年前で、梧陵32歳のときでした。
現在、広川町耐久中学校の敷地内に保存されています。
訪れた日は、ちょうど休日で、運がよく校庭に入ることができました。
 浜口悟陵銅像

なぜ、浜口吾陵は、4年間も公共土木事業を継続できるほど、莫大な資金があったのでしょうか?

実は、浜口吾陵は、現代まで存続している醤油の会社・ヤマサ醤油の大本の店の、今でいう社長だったのです。

吾陵は7代目でした。江戸時代、浜口家は、紀伊国広村から興り、大阪・銚子・江戸に店を持っていました。

司馬遼太郎の「胡蝶の夢」という歴史小説を読みました。その中で、浜口吾陵がでてきます。吾陵は、若い頃の貧しかった勝海舟に、本を買うためのお金を援助しています。

また、吾陵は、千葉の銚子に住んでいたある医者に、「あなたは長崎に留学し、もっと最新の医学を修め、たくさんの人を救える医者になりなさい」と長崎留学の資金を提供しています。
江戸では、種痘所の建物を建築するための資金まで提供しています。

吾陵は、その後和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも出仕し初代駅逓頭(郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。

吾陵は、昔から外国に興味を持っており、広く見聞を深めるため、念願の外国・アメリカに旅に出て、結局アメリカで客死しました。
享年66歳でした。

浜口吾陵、ほんとうに神様のようです。
仕事で利益を得ても、その一部を社会に還元、社会貢献をしていました。
耐久中学校の校庭の片隅に、浜口吾陵の銅像が立っています。
コートを着て、手袋をもったモダンな浜口吾陵です。
広川町の海。

きれいな海水をしていました。透明度が高いです。
 浜口悟陵の墓
広川の市街地から少し離れた、丘の麓に、浜口悟陵の墓があります。
墓域の入り口には、鎖が張られていて、関係者以外は入れないようでした。
木の隙間から、写真を撮らせてもらいました。
 広八幡神社
広八幡神社の創建年代等については不詳であるが、欽明天皇のころに創建されたと伝えられています。

本殿には誉田別命、足仲津彦命、気長足姫命を祀っています。
建立は詳らかではありませんが、摂社2棟の棟札に応永20年(1413)に造営の記載があり、このときの建立と推察されています。

本殿、拝殿、楼門などが国重要文化財に指定されています。
江戸時代には和歌山藩主の帰依を得ていました。

江戸時代末までは神仏習合により境内に多くの仏堂があったそうです。
ちょうど木々が紅葉していました。
広八幡の境内に、浜口悟陵の碑があります。

道成寺興国寺 → 広川町 → 長保寺善福院