平成23年6月 佐渡への旅
 真野宮
所在:佐渡市真野655

順徳天皇を奉祀し、菅原道真・日野資朝を配祀しています。
 真野宮はもと真輪寺といって、国分寺末寺であったため御火葬塚の直接の管理をしていました。明治元年廃仏毀釈により寺僧は神職となり、本堂を改修し宮とし、明治7年県社に認められ「真野宮」と改称しました。
   現在の社殿は大正9年の竣工で、昭和17年の700年祭には、鳥居、神橋、神門、社務所を新設して参道を広げ神域が拡張されました。
 社宝として、順徳天皇御遺品と伝える短刀、硯、扇子、釣花生などが残っています。 
 承久の乱は、鎌倉幕府は、実朝が殺され源氏の血統は絶えたにもかかわらず、北条氏は幼少の将軍を立てて執権となっていたので、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣が下されました。
 そこで順徳天皇は承久3年(1221)に位を皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲り、父後鳥羽上皇と北条義時追討の兵を挙げましたが敗れ、24歳の若さで佐渡に配流となりました。
在島22年、ついに帰京の願いはかなわず、46歳の時絶食して真輪寺(現在の真野宮)「阿弥陀堂」で崩御されたと伝えられています。

 真野御陵

所在地:新潟県佐渡市真野457

順徳天皇火葬塚です。
御陵と同じ取り扱いで宮内庁書陵部が管理しています。
 順徳上皇は「承久の乱」に失敗し佐渡へ配流となり、在島22年、ついに都へ帰る望みも絶え、絶食のはて仁治3年(1242)9月12日、46歳で崩御されました。
 翌13日ここでご火葬にされ、そのあとに松と桜を植えて目印とし、ご遺骨は翌年京都へ帰るまでここに埋められ、大原の法華堂、後鳥羽天皇御陵の傍に納められたと伝えられています。
 現在に残る立派な玉垣が整備されています。しかし御陵のなかの火葬塚は荒れているよいうに見受けられました。
 古墳などの宮内庁管理の御陵の傍には、必ず管理事務所のような建物がありますが、人は見たことがありませんでした。順徳天皇火葬塚の管理事務所には、珍しく人が座っておられました。
 火葬塚は、ご遷幸当時行在所であった国分寺が管理し、末寺の真輪寺が別当として直接に奉仕していましたが、応仁の乱後、諸国粉乱の余波をうけて大変荒廃したため、江戸時代になって国分寺の賢教と真輪寺の賢照が連名で、時の佐渡奉行曾根五郎兵衛に修築を願い出て完成したのが現在の火葬塚だそうです。

村雨の松・佐渡安国寺妙宣寺国分寺・佐渡国分寺跡→真野宮・真野御陵

万福寺跡・正法寺・実相寺・大久保長安の逆修塔大野亀とカンゾウ

トキ資料展示館 (トキの森公園)