平成23年 6月

 御代田町の真楽寺から佐久市に来ました。
 佐久の市街地をぬけだし、龍岡城跡へやって来ました。

龍岡城跡(たつおかじょう)
 所在地:長野県佐久市田口3000−1
 龍岡城は、長野県佐久市にある近代城郭跡です。
 かつて、龍岡藩の藩庁が置かれていました。
 日本に二つある五芒星形の西洋式城郭・五稜郭のうちの一つであり、龍岡五稜郭や桔梗城とも呼ばれています。
三河奥殿藩の松平氏は本拠三河に四千石、信濃一万二千石に陣屋を置いていました。11代藩主松平乗謨(のりかた)(大給恒・おぎゅう ゆずる)になり、三河の本領が手狭なのと領地の大部分が佐久郡にあることを理由に信濃へ居館を移すことを幕府に許可を得ました。藩名も奥殿藩を改め田野口藩としました。
 開明派だった松平乗謨は、洋式築城での設計を幕府に届け出て許可を得、1864年(元治元年)築城を開始、完全な完成前に明治維新を迎えました。
大手門です。
そのまま橋を渡ると、佐久市立田口小学校の校庭になります。
 松平乗謨は、17歳の時には和漢の学問すべてを習得し、その後洋学を学び、特に火砲・築城技術を熱心に学んだといいます。学才識見に優れて、幕府の要職を努めました。
 明治以降は、佐野常民とともに、日本赤十字社の創始に尽力しました。
現在城跡には佐久市立田口小学校が建っています。
五稜郭は、実戦上、きわめて優れた城郭で、敵からの死角をなくすことができるという、守るに易く攻めるに難しい構造をもっていました。

 明治4年(1871年)、明治政府が全国の城郭の取り壊しを命じたことから、龍岡城五稜郭もそのほとんどが取り壊されてしまいました。

しかしながら、御殿の一部である御台所(おだいどころ)だけは、学校としての使用申請が認められたため、現在でも当時を知る唯一の遺構として残されています。
 フランスの稜堡を取り入れているものの、胸壁が低く水堀も狭く、砲台も西方に一基しか無いため実戦には耐えられないとされます。
函館の五稜郭のミニ版と言えるでしょうか。
水堀が狭いので、とても実践には向かないです。高性能大砲がある時代の城にはそぐわないです。城というか、広い居館跡という感じです。
一万二千石の小藩だったので、予算的にもこれが限界だったのでしょう。
 マツバギク・マーガレットの花がきれいに咲いていました。

 大手門前には佐久市歴史の里「五稜郭であいの館」があり、龍岡城に関する資料を展示しています。ここでは、地元ボランティアのお母さん方がいらっしゃって、来館者にお茶の接待をしてくださいます。私もお茶をいただき、奈良漬けまでいただきました。お世話になりました。感謝です。
旧三笠ホテル真楽寺→龍岡城跡→新海三社神社