平成22年1月30日

 石垣山城

 石垣山城(いしがきやまじょう)は、神奈川県小田原市早川にあった豊臣秀吉の陣城跡です。
 石垣山一夜城または太閤一夜城とも呼ばれています。

 豊臣秀吉が,1590年(天正18年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築したものです。標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望のもとに俯瞰できたとのこと。

 小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれます(一夜城の名もそれに由来します。)。

 石垣山城は、石垣や櫓を備えた本格的な近世城郭で、関東で最初に造られた総石垣の城でした。約3〜4万人を動員し、80日で構築されたといいます。秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えました。
 駐車場に車を停め、大手口から登っていきます。
 古い石垣が今も残っています。
 大きな石が、ごろごろしています。
小田原攻め
 秀吉が関白宣下を受けたのは天正13年7月のことでした。天正15年には九州を平定、翌年には、聚楽第に御陽成天皇を迎え、行幸の儀を執り行いました。

 この行幸中、後陽成天皇が見守る中、家康をはじめとする有力諸将に、朝廷および関白秀吉への絶対的服従を誓わせました。ここに至り、秀吉の権威は不動のものとなり、その政権は法的正当性を得ました。

 だが、なお臣従の礼をとらないのは小田原の北条氏政・氏直父子でした。

 天正17年末に決した秀吉の小田原征伐軍の動員兵力は、氏政・氏直の想像力をはるかに超え、総兵力約20万の軍勢が一斉に小田原領になだれ込んできました。

 秀吉自身は、天正18年4月5日に早雲寺に入って本陣とすると、直ちに石垣山一夜城の築城に着手しました。

 6月25日、ついに天守以下が竣工します。小田原側の樹林が一斉に伐り払われて、小田原城の頭上に秀吉の一夜城が忽然と姿を現わしました。

 26日早暁、一夜城の出現に小田原篭城の将兵は戦意を喪失。周辺の支城群が次々と開城・落城する中、7月5日、小田原城はついに降伏しました。

 石垣山は、小田原北条氏の始祖・北条早雲が牛の角に松明をくくり、大森氏の小田原城を攻めた際も、この地が早雲の陣所になったと言われています。    
二の丸(馬屋曲輪)
二の丸は、平坦で、とても広いです。
 ここにも石垣があったようです。石は、穴太衆により野原積みされました。
 本丸へと登ってきました。
 展望台があり、遠くまでよく見えます。
 相模湾がきれいです。
小田原市街地です。
よく見ると真ん中に小さく、小田原城の天守閣が見えます。
本丸に、小高い山があり、そこが天守台跡とのこと。
天守台跡です。
大駐車場から見た、石垣山城跡の山です。
河津桜の花が、数輪、咲き始めていました。
石垣山の中腹から見た小田原市街。

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