平成22年1月30日  小田原

 小田原城

石垣山城跡を下り、小田原城へやってきました。

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての平山城です。江戸時代には小田原藩の藩庁があり、城跡は国の史跡に指定されています。

室町時代中期、1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げます。

1495年(明応4年)、伊豆国を支配していた北条早雲が大森藤頼から奪い、大幅に拡張ましした。以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の五代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となりました。

北条氏時代、小田原城の外郭は総延長9キロメートルに及び、上杉謙信、武田信玄の包囲にも耐えました。

しかし、1590年(天正18年) 豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして、小田原征伐をしかけました。
秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに、別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させました。
駐車場に車を停め、歩いてくると、お堀周りの擬木に、ハト4羽が仲良く留まっていました。
白梅が咲き始めています。早いです。
小田原は、暖かいのでしょうか。
梅の花の匂いが漂ってきます。
紅梅も咲いていました。
橋を渡り、本丸ゾーンへ向かいます。
なんという種類か判りませんが、もう、桜が咲いています。
小田原城で飼われている猿です。
仲間の毛づくろいをしています。虫がいるのでしょうか。
復興天守現在の小田原城址の主郭部分は、江戸時代、大久保氏時代に造営されたものです。
主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城です。

1960年(昭和35年)、天守がRC構造によって外観復元されています。
小田原城
再建天守ですが、立派ですね。
天守の中は、歴史資料館となっています。
天守の展望台まで登ってくると、石垣山城跡の山が見えます。
天気がよいです。
相模湾が陽を受け、きらきら光っています。

 北条早雲銅像
 小田原駅西口のロータリーに、騎乗姿の北条早雲銅像が建っています。
 傍らに、小田原城の大森氏に夜襲をかけた際、牛の角にたいまつをつけ軍勢を多く見せた故事によるものか、牛の銅像も並立しています。
 早雲銅像は、かっこいいですね。

 早雲寺
箱根湯本にある、早雲寺を訪れました。
早雲寺は、神奈川県足柄下郡箱根町湯本にある臨済宗大徳寺派の寺です。

1521年(大永1)小田原の北条早雲(宗瑞)の遺命によってその子氏綱が、京都大徳寺から第83世以天宗清を請じて開山とし、北条家の菩提寺としました。

1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めにあたって、秀吉はこの寺を本陣とします。

小田原城落城後は北条氏の外護を失って廃寺同様となりますが、1648年(慶安1)徳川家光から朱印状を与えられて復興されました。
北条氏五代の墓
 寛文12(1672)年8月、狭山北条家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したものです。
早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の小田原北条氏5代の墓です。
 小田原北条氏滅亡から82年後のことでした。
連歌師宗祇の墓
 生涯旅に明け暮れた宗祇は、82歳のとき旅先の現在の富士裾野市で亡くなりました。宗祇の弟子たちにより、早雲寺に墓所が造られました。
枯山水庭園
 本堂の裏に、北条早雲の三男北条幻庵の作といわれる枯山水庭園があります。
  幻庵は、戦国時代初期を代表する文化人でした。
この庭園は、山の斜面に大きな岩を配し、鎌倉・室町期の禅寺の庭園様式を取り入れたものとされます。
石垣山城 → 小田原城・早雲寺 → 山中城 → 駿府城、三保の松原