平成23年12月 大分県
大分空港へ着き、早速、レンタカーを借りて別府市内を目指しました。
大分自動車道へ入り、別府湾SAで休憩しました。
冷たい風が吹いていて寒いです。12月ですから、しょうがないですが。

大分県へ旅に来ました。大分県へ来るのは初めてです。

 別府湾SA
別府湾SAの展望台から、別府市内を望めます。
別府市は、市街地のすぐ近くまで山がせまっています。
風が強く寒かったです。


 吉祥寺跡と大友氏時の供養塔
 別府市街地から山道を登ってきて、ラクテンチの上辺りまできました。
公民館を右に見て路地を入っていきます。
 ラクテンチのフェンスの向こう側にの吉祥寺開山塔と大友氏時の供養塔があります。
 吉祥寺跡は民有地となっているのでしょうか。庭と思われる所に、五輪塔がたくさん残っています。
ラクテンチの近くにある開山塔と大友氏時之供養塔です

 高崎山城跡
 高崎山城(たかさきさんじょう)は、大分県大分市の高崎山にあった城で、高崎城とも呼ばれます。
 豊後守護であった大友氏の詰城として高崎山山頂に築かれた山城です。
 当時、府内の中心部には大友氏の居館である大友氏館や上原館があるのみで堅固な城郭はなく、戦時には、やや離れたこの城に拠ることとなりました。
 正平13年・延文3年(1358年)に大友氏第8代当主大友氏時によって本格的に整備されました。
 南北朝時代には九州における北朝方の拠点として、南朝方の菊池氏との数多の戦いの舞台となります。
 建徳2年/応安4年(1371年)7月には、北朝方の九州探題今川了俊の命により、嫡男の今川貞臣、田原氏能がこの城に入城。この年の8月から翌建徳3年・応安5年(1372年)正月にかけて南朝方の菊池勢と攻防が繰り広げられました。
 永正15年(1518年)、第20代当主大友義鑑に対して叛旗を翻した朽網親満はこの城に立て籠もったが、佐伯氏らに追われて玖珠郡に逃走した。
 文禄2年(1593年)の大友氏改易後に、城は廃城とされました。その石材は、福原直高による府内城築城に用いられたといいます。
高崎山城跡の進入路です。道は未舗装となります。
高崎山城が見えてきます。高崎山を城塞化したものです。
約5分弱ほどでしょうか、走っていくと少し広い空き地があり、車を数台停めるスペースがあります。
ステンレスの柵があり、この道から高崎山城へアプローチします。
登山道を少し登ると、人がわやわやといました。何だろうと思うと、登山道の脇に岩場があり、そこでロッククライミングの練習をしている人達でした。年齢は高年の方ばかりでした。
高崎山では紅葉が始まっていました。
きれいです。
登山道から麓が見えます。
登山道には所々、道が石が転がっています。広葉樹の葉っぱが落葉し、落ち葉が積もっていました。気をつけないと、石で足をくじいてしまいます。
やがて、登山道の途中に、堅掘の表示板がいくつかでてきます。
高崎山城跡の堅掘の遺構が残っています。
やがて30分ほどで、本丸直下へでます。大分市観光協会の高崎山城の説明板がありました。
本丸跡
何段かの郭があります。
本丸跡の一番高い所です。
高崎山の表示と三角点がありました。
土塁らしきものがあります。
狼煙を上げるのに使用した穴でしょうか。
 これで、高崎山城跡の観光を切り上げ、大分市内へと向かいました。
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